夏空~虹の向こう側  趙孔(私設)

 


04:忠誠の証  ・・・それは盤上の遊戯ではなく






劉備に一の軍師として抜擢されたことには驚いた。
こちらはただの在野の文人。水鏡先生や徐庶の推挙があったとしても、何の実績もない。
文官として、一行政官としてなら、すぐにでも手腕を振るうことは出来ると自信がある。
だけど軍師となると・・・



「俺を、先鋒に。最も危うく難しい任務を」

主騎に、そういわれたのは、明朝には開戦の軍議をひらくという、夜のことだった。

素っ気ない言い方だった。
それでいて、底が知れない深い熱が篭められてもいた。

「駒が、必要でありましょう。――殿の志を叶えるために。大業を為していただくために。どのように戦であろうとも、あなたの意図を汲んで、よどみなく動く、駒が」
「駒、――・・」
孔明はつぶやいた。
「むろん、すべての将兵はあなたの駒です。その中でもっとも使い勝手の良い駒の役を、俺が引き受ける」

孔明は立ち尽くした。
駒、という言葉の響きが、胸を深くえぐって貫いていた。
しかし考えるまでもなく、劉軍の一の軍師として立つ以上、すべての将兵は駒に違いなかった。

戦場を模して駒を動かす遊戯はいくつかあるが、孔明はいずれも得手である。遊戯では、だれかに負けることはほとんどない。
だけど、だけど、・・・生きた兵は駒ではない。
将兵は、木片や粘土で作られた盤上の遊戯の駒ではない。
生きているという点で。一人一人が生命を持ち、自ら考える頭脳を持ち、感情を生み出す心を持ち、そして一人一人が、他者にとってかけがえのない存在であるという点で。

木や粘土で作った駒に感情はない。頭脳も心もない。
だけど生命を持つ人間は、ひとりひとりがそれを持っている。
頭脳も心も伴った駒として、彼らの心情や忠誠や勇敢さ、また惰弱な臆病さまでも計算に入れたうえで扱わなければならない、生きた駒―――・・・・
それが、軍師。

あなたの、ことも・・・・・・・・・・・



「俺を、先鋒に。絶対に、ですよ。もっとも危険な軍務を与えてください」

言葉が出ない孔明を相手にして、鬼気迫る形相になった主騎は、孔明に迫った。壁に押し付けられるような体勢になり、精悍な容貌が、息を感じるほど近くに迫る。

「あなたの策を為す上で、もっとも要となり、もっとも危険な役目を、俺に」

いまもっとも荊州に近い曹操軍は、夏侯惇と李典。この二将が荊州を侵したならば迎撃するよう、劉備は劉表から命じられている。
時期は一触即発。
先の宴席で披露した通り、戦場は博望坡になるだろうと孔明は考えていた。


「欲するものが、あります、俺には。戦勝のあかつきには、それを叶えていただきたいのだ」

抑えに抑えているが抑えきれていない、何か大きな感情が秘められている必死な形相に、孔明は将を振り仰いだ。

「私に与えられるものなど、あるとは思えませんが・・」

手柄を立てて褒賞をえる・・・たとえば金子、財宝、地位や官位、領地、女。
古今の武人たちが望んで得たであろうものを自分が彼に、今の時点で与えることができるとは思えない。

「欲しいものは、この手で、槍で、掴み取ってきました。これまでたいして欲しいものはありませんでしたが。いまは、―――」

趙子龍に、なにか欲しいものがあるのだということはわかった。
武勲を立て、主公に願い出るのだろうか。それを孔明に口添えして欲しいということか。

「欲しいものを武で掴み取るというのは、正しい武人の姿と存じます。私にできることならば、なんなりといたしましょう」

鷹揚に頷き微笑をつくった孔明を、趙雲は底の知れぬ黒々と眼で、睨むようにねめつけ、
「あなたは、――」
なにかを言いかけて口をつぐみ、もう一度孔明をぐっと睨みつけた後、鍵をつかって孔明の居室の扉を開けた。
中をのぞきこみ、部屋に人の姿や乱れがないことを確かめてから、孔明の背を押すようにして、部屋に入らせた。

「将軍、」
「では、――お忘れなく。俺に、もっとも苛烈な軍務を与えてください、軍師。必ず、果たしてみせます」
おやすみの挨拶もないままに、扉はばたんと乱暴に閉じられた。


閉まった扉に背をもたせかけて、趙雲は荒く息をつく。
もうだめだ。
抑えきれない。



そして迎えた初戦。
孔明の立てた策は、曹軍を博望坡に誘い出し、地形を利用して火計で敵軍を焼き払うというもので、敵軍をみごとに敗退させた。

戦の勝利はとうに決まっていたのだ。
「彼」がその任務・・・・囮となって敵兵十万を山間の隘路に誘いこむという任務を果たしたときに。
孔明は彼に、最も危うく難しいこの役目を任せた。この戦の、孔明の立てた策の、要となる役目だった。
彼は見事にその役目を果たし、名のある武将を生け捕りにし、名剣を手に入れ、帰還した。

彼は、凱旋の喧騒からほんの少し放れたところにいた。
ぎらぎらとした凄惨な剣気を漂わせる将兵の中にあって、最も激戦に身を置いたとは思えないほどその気配は静かだった。
身に纏う空気が素なのは、主公と、それから彼だけに見えた。


視線に気づいたものか、彼が孔明のほうを見た。
視線が合った時、心が震えた。

ゆったりとした足取りで近づいてくる。
間近になると、その気配はさすがに荒々しい。挙措のたびに打ち鳴らされる具足の音がものものしかった。

「この度は、誠にあざやかなお手並みでした。・・・趙将軍」
「負けて逃げるだけの役ですから」
すらりと頭を下げる孔明に対する武人の返答は、素っ気無いほどぶっきらぼうなものだ。

負けて、逃げる。
つまりは囮。
それがどんなに危険な役目であることか。
ただ敵前に現れて逃げれば良いというものではない。戦闘が必要だ。
敵将の判断を狂わせる激しい戦闘をし、いかにも形勢不利にて退却すると見せかけて逃げ、追いかけさせる。それを、歴戦の勇将相手におこなうのだ。
一手間違えれば一軍が全滅しかねない駆け引きが、難しくないわけがない。

孔明は、離れた丘の上から戦の趨勢を検分した。
見ていた。
趙雲が数万の敵兵に対して、兵の先頭に馬を立てて斬り込んだところを。
趙雲の役目は、先鋒でわざと負けることだった。負けて逃げ、周到な罠を敷いた渓谷に敵の全軍をおびき寄せる。
最も危うくむずかしい軍務を、この将はやり遂げた。
配下の軍を手足のように動かし、朱房の蒼銀の槍をかまえて敵将と斬り結ぶ気迫は天を焼き焦がすようなものだった。
そして退却時には、最も危険な殿を務め、配下のものを守りながら見事に退却した。
際立った武力と胆力と、乱戦の中でも的確に退路を見極める冷静な判断力。
それらをこの将は、持ち合わせている。

孔明は、主君から拝領したばかりの羽扇を握る手に力を込めて、頭を上げた。男の顔を、目を、正対に見据えることを己に課した。
ただし、いつもの笑顔はつくることはできなかった。
「いいえ。見事なお働きでした」
男も正面から孔明を見返した。

孔明は自分が少なからず緊張しているのに気付いた。そしてその緊張がほどけてしまいそうな気もした。
相手の眼光に、力がこもる。切なくて激しく狂おしい、そのように見えるのは、あるいは孔明自身が胸中にそのような想いを秘めているためか。

「俺は、軍師の役に立てたのか」
彼は、静かに言った。孔明は真摯に頷く。
「ええ、もちろん・・この上のない働きをしていただきました」
「俺は、あなたの良い駒に、なれたのか」
孔明は、目を閉じた。
胸中の奥から熱い感情がこみあげて、喉元までも迫った。
或いは、泣きたかったのかもしれない。しかし泣くことなど、許される筈もない。
喉もとを震わせた孔明は、かすれた吐息だけで返答した。
「・・・・・・はい」


孔明の様子をどう見たのか、将は眉をひそめた。
「軍師。―――孔明、殿」
「は、い・・・」
あざなを、呼ばれた。

「言いたいことがある」
震動する心のうちをどうしようもなく、孔明は手を握りしめる。
羽の扇が邪魔におもえ、手近な卓に置くと、それを待っていたように、手首を取られた。
「趙、将軍」
「軍師」
顔が、近付く。
孔明は、息を止めた。




「戦場に、出られましたね」
「え―――は、はい・・?」
至近でぎらりと睨まれて、孔明は止めていた息をさらに呑み込んだ。ちょっと息苦しい。 「あれほど、城で待てと言っておいたのに」
それは確かに、何度も何度も何度も何度も、それはしつこく念を押されたのだが。
「ああ、・・それは。戦を知らねばならぬと、おもったものですから。戦を、血を、死を知らないで、軍師たる職務は務まらないでありましょう」
「だからと言って・・・!あのような前線に、来るなど。丘の上にあなたの姿が見えた時は、俺は、――心の臓が止まるかと思ったのだぞ・・!!」
怒鳴りつけられて、孔明は目を丸くする。
え、あの乱戦のさなかにあって、誰より速く先陣を駆けていて、敵兵を蹴散らし敵将と烈しく斬り結んでいて。
私の姿に気付いていた?
武人って、すごいのだな・・・いやなにか、この人だけの特性のような気もするが・・・
おのれの主騎の特異性を垣間見て目を見張った孔明は、武人にしこたま説教された。
「あなたが戦場に出ることは、ない」
「戦場に出ることは、必要なことだったと、おもっております。いささかの後悔もしておりません。それに、すでに勝敗は決しておりました」
「勝敗が決したとはいえ、いや、だからこそせめて一矢報いんとする敗残兵がいつ襲ってくるかわからないではないか」
「ちゃんと護衛を連れておりましたよ」
「俺以外の、者を、ですか」
衝撃を受けたように趙雲が目を見張るので、孔明は罪悪感にかられ、こほんと咳ばらいをする。
「えーーあー・・・今度からは、貴殿に頼みます」
「無理だ。俺はあなたの駒として、戦に出るのだから」
「駒、駒、って。そのような言い方は、やめてください。私が貴殿を只の駒として見ているとお思いか」


「おまえら、そろそろ、やめよ」
ごほんっと大きな咳払いがあり、ふたりが振り向いたところに生ぬるいにこやかな笑みを浮かべた主君がいた。
「なに喧嘩してるんだよ?勝ち戦なんだぜ、酒だ、酒」
虎髭のほうの主君の義兄弟が巨大な酒壺を振り回す。
「うぅむ、わしは軍師殿のこの先の軍略を、聞きたいものだ」
美髯のほうの義兄弟が重々しく頷く。

その夜の新野では、戦勝を祝う宴が開かれた。

 






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(2019/10/14)

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