夏空~虹の向こう側 趙孔(私設) |
05:あなたへの気持ち ~夜明けの虹、夜更けの暗雲~ 夜明けを見るのは、好きだ。 東の空がすこしずつ明るくなると、期待のようなものが胸中に生まれて満ちてゆく。 起伏の多い山の稜線の一角が、黄金色のひかりを放ち、金の輪郭に染まる。 一瞬、いや数秒間の、出来事だ。 金色のひかりは黄色の球体として、山から姿を見せはじめた。この世のひかりの全てを集めたのよりもまばゆいひかりが解き放たれて、満ちたひかりが目を射る。 静かに誇らかに上昇する球体は、昇るほどに白くなり、気が付くと世界はなにもかも明るくなっている・・・ 日の出の一部始終を見届けた孔明は、ゆっくりと振り向いた。 「お待たせいたしました、趙将軍」 「いえ――」 朝日がまぶしいのか、武人は目を細めている。 並んで、屋外へと歩み出た。 馬を繋いでいる厩舎にいきつくと、孔明は武人から手綱をもらいうけた。 武人に手を貸されて、身を馬上へと押し上げる。 馬のあつかいを一応のところまで習得したので、もう、武人と同乗することはない。 馬に乗る際、そして降りるときのいっとき、手を借りるだけだ。 一瞬、触れ合う手の堅さが、心を焦がすだけ・・だ。 このところ、孔明はひそかに舟を集めていた。 樊城と襄陽の間に流れる川、漢水は江夏へとつながる。大軍を移すなら、水運をつかうのが上策。 官位をもつ豪族や、有力な部族、強い勢力をもつ商人、はては水賊にいたるまで。 あらゆる者に会い、手をつくして味方をつくろうとしていた。 この日も、そうしようと思っていたのであるが。 新野を出ていくばくかも行かないうちに将は、馬を止めて空を仰いだ。 「将軍?」 「雲が、」 青天にもくもくと真っ白い積乱雲が生じて、太陽が翳った。 陽が雲に隠れるとにわかに雲が暗くなり、やがて、ぽつりと最初の雨粒が落ちた。 透明な大粒の水滴がさあさあと、とめどなく降り注ぐ。 豪族に会わんとしていたので、それなりに衣冠をととのえている。濡れてしまってはみすぼらしい。 木陰に逃げ込み、雨をしのいだ。 「あんなに晴れていたのに」 「降り続くのは、困るな―――龍は、天気を操れるのでは?」 からかうような声音をよこされて、孔明はあごに指をあてた。 「操れはしませんが、読んでみせましょう」 天を仰ぐ。 「晴れた日に生じた、綿のような形をした雲――積雲。雲低は平たくて動かない。明暗が目に見えて分かれる、濃い雲粒・・・・そうですね、この雨は四半時も待たずして、止むことでしょう」 雨は止んだ。孔明の予言通りに。 戻ってきた日の光が、雨滴をきらめかせる。 「お見事」 木陰から歩みいでた趙雲が、ふたたび輝き出した太陽をまぶしげに見詰め、息を吐く。 この才知、見事なものだ。 「趙将軍。この雲は、晴れた空に雨を降らすのですが、その後には、よく見られるものが。―――ほら」 「ああ」 無骨な武将ですら感嘆をもらす、みごとな虹がかかっていた。 果てのない広大な青空に、しろい雲、樹々は緑に揺れて雨滴が光を弾いてきらめく先にかかる、なないろの壮大なひかりの架け橋。 言葉をなくすほどに透明で、鮮やかな光景。 孔明はちいさく笑んだ。 「子どものころ、虹にたどりつきたくて、歩きました」 趙雲は目を伏せて、かるくわらった。 「行動力があるな。俺は、見ていただけだった。不思議なものだとはおもったが」 「虹の向こう側は、どうなっているのかと、気になって」 「虹の、向こう側、――か」 虹は太陽の反対側にあらわれる。 朝の虹は、だから、西に出る。 「あの虹の向こう側に、巴蜀の地があります」 孔明はさりげない様子で、しろい指をついと伸ばして、虹のかなたを指し示した。 趙雲は、はっと息を呑む。 天下三分―――― 巴蜀を制し、荊州を獲り、揚州と同盟して、曹操の華北と対抗する。 「あなたは、それが、本当に叶うとおもっているのか」 なかば呆然として、趙雲は軍師を凝視した。 「道は、見えております、私には。あの虹のように鮮やかに。ですが虹というものは光のうつろい。いつまでもあるものではありませんし、行きつけるか、どうかも、さあ、・・・どうでしょうね」 行き着けるかどうか分からないと言いつつも、軍師の表情はあかるく迷いない。 まるで、行き着くのが当然、と確信しているように。 趙雲は、軍師に見えないように唇を噛み締め、拳を握った。 「行きましょうね、趙将軍。主公と、共に。あの虹の、向こう側に」 孔明は、気づかなかった。 将が、苦しげに目を伏せて答えなかったことに。 彼が、虹の向こう側になんて、行くつもりがなかったことに。 まるで気付かなかったのだ。 日が暮れるころ、新野に戻った。 下馬の際に、手を取られる。 うやうやしく、でも強引に。それでいて、迷うように。 「―――夜、室に伺っても?」 目を合わせずに、将はささやいた。 「・・・ええ。宜しいですとも」 数瞬の間をおいたのち、手は離された。 曹操が、袁家を滅ぼした。 二十万の兵を率いて曹操自ら南下するという報が、届いていた。 夜になった。 曹操軍本隊急襲の報。 夕刻の新野の狭い城内は急報におののき、ごったがえしていた。 そのような喧噪も日が落ちると徐々に落ち着き、ことに城内でもっとも中枢に近いところにある孔明の居室まで、騒がしさは届かない。 孔明は明かりをつけず、窓のそばに立っていた。 戦の前とはおもえない静かな夜だ。 見回すと、室には水が入った竹筒しかない。 人が訪ねてくるというのだから、茶くらい用意したほうが良いのか。いや、夜だから酒のほうが。 長袍を肩にひっかけ、扉に向かう。 指先が木の戸に触れようとしたとき、扉の向こうから、訪いを告げる声がかかった。 「―――趙子龍です」 孔明は伸ばしていた手でそのまま扉を開けた。 あまりに早く扉がひらいたので、外に立つ男はすこし驚いたようだった。 「どちらかに、出られるのか」 近くにある孔明の顔と肩にひっかけた袍をみやり、趙雲が問う。 「貴殿がおいでになるというので、酒でももらって来ようかと」 「ああ、それなら」 ふ、と趙雲が微笑した。 「前の戦のときの褒美に、主公からいただいたものが」 趙雲が持参していたのは、陶器の酒壺だった。壺の口の封を守るように青色の紐が巻かれた、高級そうな品だ。 「良さそうな品ですね」 「江南産の上物だそうですよ」 龐士元の好きなやつだ。 酒好きの友人を思い出して、孔明も微笑した。 その時にはすでに趙雲は真顔になっており、微笑んだ孔明の無防備な様子に、また、なんの警戒もなく室内に招き入れられたことに、心中でため息を吐いていた。 中途半端に肩にかけていた白い表袍を着なおして帯を締めてから孔明は、椀を用意した。 粗末な城内のことゆえ、使い始めたばかりの孔明の室も狭く簡素なもので、小さな卓がひとつ、椅子も一つしかない。 政務を行ったり食事を摂ったり人と会談したりするのは別の棟でおこなっていて、私室は寝るためだけのものだ。人を招き入れるのは初めてのことだった。 酒は甘いような香りがした。ひそやかに咲く花のような、たおやかな芳しい香りがした。口当たりもまた花びらのようにやさしくやわらかい。 趙雲は窓辺にいた。ただ一つある粗末な椅子が気に入らないものか、窓の桟にゆるやかに背をもたせかけて顔を伏せ、時折、思い出したように酒を飲む。 大柄な男がいるせいで、ただでさえ狭い部屋がなおさらに狭い。 「・・・貴殿がいると、部屋が狭い」 「邪魔ですか?」 「いいえ」 孔明も立ち上がった。開いた窓から、夜風が流れ込んでくる。 ・・・・・ああ、好きだな。 なんの脈絡もなく、孔明はそうおもった。 私は、この将が、好きなのだ。 酔った上での思考かというと、そうでもない。心の奥底から湧いて出てきた、しみじみとした確信だった。 叶う想いだとは、思わない。 だけど、束の間でもよい、この先も、このような時間が持てたらよい・・ 「俺は、あなたが好きです」 声が聞こえた。 言われた内容が理解できず、疑問を浮かべた表情で孔明は顔を上げた。 趙雲が見ていた。まっすぐに。窓辺にもたれかかった、一見するとくつろいだ様相で、しかしあまりに手指に力が入っているために、窓枠がみしりと不穏な音を立てていた。 「焦がれております。苦しいくらいに」 孔明は無意識のうちに一歩下がった。下がるやいなや趙雲が大股な一歩を前に進めたので、ふたりの距離はかえって近くなった。 とん、と壁に肩がつく。 これ以上はもう下がれない。 長身の孔明より将はさらに背が高い。武人らしい均整のとれた体躯が間近にあり、じっと見下ろしている。 「・・・・貴殿は、女好きのはずでは?」 「誰からそんなことを」 精悍な容貌に驚きと怒りと呆れが浮かんだのを見て、孔明は横を向く。 「失言でした。失礼を」 「人を恋うたのは、はじめてです」 「・・・その、相手が、私、なのですか」 「ええ」 息を整えて孔明は、顔を正面に向け直した。 動揺しては、駄目だ。はっきりと、断らなければならない。 何といえば、よい? 『貴殿のことは同軍の同志として好ましく思い、頼りにもしておりますが、恋愛ごとにお付き合いはできません。どうかご容赦を賜りたい』 すらすらと考えつくことができた。なぜなら、常日頃からそう思い、自分に言い聞かせてきたからだ。 ――趙将軍のことを好もしく思うのは仕方がない。ある程度は頼りにするのもよい。けれど、諸葛孔明よ、分かっておるな。恋愛感情を表に出してはならぬ。それだけは、ならぬぞ、・・・と。 「軍師殿が俺を、同軍の同志として好ましく思われ、また頼りにしておられるのは、分かっています。しかし、それだけであることも、知っています。――あなたは、俺に、恋愛感情など、持ってはおられない。そのことは、重々、承知しております」 え、・・・? まさに口にしようとした台詞をそのまま告げられて、孔明は固まる。 しかも、ばっさりと恋愛感情を否定されたことに、じわじわと怒りが湧いた。 ちょっと、待て。 恋愛感情を持っていない、だと? 私がどれほど貴公に恋い焦がれていることか。 どれほど感情を持て余していることか。 さりげなく馬に乗せるわ、肩衣をかけてくるわ、傷口を舐めるわ、男前なのをさんざん見せつけたあげく私の前でのうのうと昼寝をしましたよね貴方は・・・どれほど寝顔にときめいたことか。ときめく自分の愚かしさをどんなに呪ったことか。 あざやかな武も。愛馬をとても大切に慈しんでいることも。意外と喜怒哀楽が豊かであることも。 知るほどに、惹かれて、好きになる。 それを、全否定するのか 手がわなわなと震えた。 怒り、悔しさ、恥ずかしさ。あふれる愛しさと、みなぎる憎さ・・・ あらゆる感情が渦巻いた。 「恋愛感情が、あったら。如何しますか」 「は?」 男前は、眉を上げた。 「あなたが、俺に?まさか」 「・・・・・」 いったい何なのだ。この男は。 好きだ、焦がれていると自分の想いは真顔でぶちまけて、人の想いはばっさりと全否定。 いったい何がしたい。 そもそも、一体なにをしにやって来たのだ。戦を前にしてごったがえす城の、軍師の部屋に。 わざわざ約束を取り付けてまで、夜に。 室に行くという言葉が無ければ、孔明は膨大な戦前処理にあたり、室にはいなかっただろう。 それに、そういえば。 「貴殿は、欲するものがあると言いましたね。前の、戦のときに。・・・叶えて欲しいこととは、いったい?」 「それは、・・・もう良いのです」 あれほど熱く願ったくせに、そっけなく、男ははぐらかした。 「あの時は、手に入るかもしれないとも、おもっておりましたが。軍師殿の最良の駒となり、おのれの武であなたの策を成し遂げ、主公が征く道を切り拓く刃になれば、或いは、手に入るかも・・届くのかも、しれない・・・、と」 「・・・あきらめた、と?」 「あきらめきれないから、こそ」 決着がつかず噛み合わないやり取りに眉をひそめた孔明は、ひそやかに切り出した。 「・・・貴殿は、いったい、何がしたい。今宵、ここに、何をしに来たのですか」 「想いを、告げに」 「想いを、告げて―――そのあとは?」 「さあ、どうでしょうか。その後は、考えておりませんでした」 「それは。・・なぜ?」 なぜ、想いを告げるだけで、良いのか。 孔明の想いを受け取るつもりも、返答を聞く気さえないのは、なぜなのか。 なにをあきらめて、なにがあきらめきれていないのか。 「俺には、時間がない。黙っていようかとも思いましたが。・・・死ぬ前に、ひと言、想いだけは告げておこうと。そう決意しました」
(2019/10/19)
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