投果と宝玉  趙孔(無双)

 



薬湯が出来上がり朗らかな青年が退室すると、居室に静寂が戻った。
まだ午後の早い時刻であるのに、寒々とした部屋。表衣を落として楽な格好になり、毛織りの布をくるまるように羽織った。包み込まれる感覚に、少しだけ安らぐ。
あたたかく煮えた薬湯を両手で包みこみ、息を吹きかけながら少しずつ口をつける。刺すような苦みは舌にやさしいものではないものの、熱さと身体をあたためる薬効が染みいり、胃の腑がじんわりと熱くなる。

季節柄、これからもっと寒くなってくる。
綿の厚くはいった布団を所望するのは、贅沢なことなのだろうか。我が儘な軍師であると蔑まれるだろうか。でも、風邪をこじらせて病にでもなれば、なおさら風当たりはきつくなるであろうし・・。
そうだ・・備蓄してある兵士用の毛織り布を何枚か重ねて用いれば、寒さはしのげよう。武人たちとは違う待遇だと、陣内で陰口を叩かれないで済む。
戦火に焼け出されて住まいを失くし食べものにも事欠く戦地の民――かつての自分もそのうちに一人であった――その惨めで無力な境遇をおもえば、恵まれていると思わねばなるまい。


肩から羽織った毛織りにくるまったまま、これだけはと戸籍の書を広げたところで、扉が叩かれた。
扉の叩き方で誰であるか、すぐに分かった。
どうしようかと、しばし迷う。
どうしたのだろう。会いたくなかった。
どうしてだろう――会いたくない。
返答をしないでいると、立ち去るだろうか。
それも不誠実な気がして、気乗りがしないままに立ち上がり、扉まで歩み、常と変わらない声音を心掛けてさりげないふうに言った。
「主公にたまには休養せよとお気遣い頂いたので。休んでおります」
今日はお引き取り下さい、といおうとした。しかし、扉は強引に開かれた。

「具合がお悪いと、聞きました」
「・・・」
孔明はその秀麗な眉をひそめた。
「・・将軍。あまりに、ぶしつけでありましょう」
護衛であり、また、・・・・・情人でもある。
だからといって、許しも得ずに私室に踏み込んで欲しくはなかった。
「すこし、具合を悪くしております。薬湯を飲み、横になろうとしていたところですので――」
「お許しを、軍師殿。ですが」
言いつつも、出て行く気配はない。
「あなたが、心配で」
いつだって、そうだ。
敬意をともなった言動にて公務の際には忠実な護衛武官として付きながら、私的な場では、孔明の意をやんわりと無視し、自分の思い通りにしてしまう。
結局、武人という人種は、そうなのだろう。多かれ少なかれ、我が強い。
他者の意を汲んでばかりいるような気の弱い性分で、武を極め、兵を率いるのは無理だ。
生え抜きの勇将であるこの人の、我が弱いわけはないのだ。

昼夜を問わず護衛についていた初期と異なり、最近は互いに職務が異なり、距離を置いていた。
ふたりきりになるのも、思えば久しぶりな気がする。

入室したことをぶしつけだと非難する事自体がすでにおかしい。
狭く粗末な居室は、ゆいいつ、一人になれる場所だ。たやすく侵入して欲しくないのは本当だが――かといってすでに幾度かこの室の寝所を共にしているのである。
だけど・・・・会いたくない。
「一人になりたいのです。今は」
「年若い医官は、入れたのに、ですか」
「どうして、それを」
「軍師殿の調薬のお手並みを拝見したと、たいそうなはしゃぎようでしたので」
「そうですか」
孔明は内心で舌打ちをした。
あのように朗らかな年若い者に口止めをしなかった此方の落ち度である。


将は当然のように入室し、扉が閉められた。
本当にふたりきりだ。
追い出すこともできかねて眉を寄せた孔明は、粗末な木の小卓に武人が置いたものに目を留めた。

花梨(かりん)の実。
黄色く熟し、皮に傷もなく良い実だった。
香りがよく薬効もある果実である。しかしながら、生では食べられない。
干して煎ずるか酒に漬ければ薬になり、咳止めや喉の炎症をやわらげる効用がある。普段ならば喜んで受け取り、自ら薬用に調整したかもしれないが。


「具合は、どうなのですか」
声とともに、果実を置いて空になった手が伸びてくる。さりげないふうに孔明は避け、後ずさった。
「孔明殿」
さりげなさを装って触れ合いを拒んだことを敏感に悟ったのであろう、武人の目から気づかうような色が消えた。口をつぐんで表情を消し、孔明の様子をうかがっている。温和な表情が消えると、武装しているせいかやけに威圧感があり、狭い居室がなおさら狭く感じる。

こうして改めて見ると、男らしく凛々しくていながら優婉さも持ちあわせた、まことすぐれた容姿の将である。
誰にでも公平であり、軍務中は厳しいこともあるが、情人としての孔明には殊更ものやわらかに優しく接する。
彼の本質が優しいのかどうか、孔明には分からなかった。
だが、優しいだけの男が他者を圧する武威を持つはずもない。

男から離れてすこし距離を置いた孔明は、目を伏せた。
明るい薄黄色の果実が放つ甘酸っぱい芳香が、居室に広がっていた。
「・・・また、投果ですか」
「――いえ」
醒めた声音で問うと、少し気まずそうに武人が身じろいだ。
否定がかえって、肯定に思えた。


投果は、女から男への求愛。
最古の詩篇である詩経には、男女の愛や婚姻に関する詩も多い。その中に、投果婚を主題とした歌謡がある。
女が、恋しくおもう男性に、果物を投げる。果実は、天と大地が結実させた生命力のかたまりであり、性愛と子孫繁栄の意味合いを兼ね備えるゆえに、女から男へ果実を贈ることは、求婚であったのだ。

婚姻をあらわす意味合いは廃れたが、意中の男に果物を贈るという風習は、直に話し掛ける勇気のないうぶな娘たちが、意中の男に好意をしめす可愛らしくもいじらしい行為として残っている。

護衛されて市中を歩くとき、この武人への投果を目にしたことが何度もあった。
人民をいたわる劉備の軍に人望が集まっており、とりわけ若々しい偉丈夫である趙雲は若い娘たちから人気がある。
興奮したような様子の幾人かの娘が連れだって、よく熟れた果実を武人に手渡し、周囲から声援のような陽気な野次が飛んだこともあれば、果実を押し付けるようにして真っ赤になって逃げていく娘もいた。
趙雲は、断りはしないものの、さりげないふうに果実を孔明の目からは隠していたものだったが。

それを、堂々と持参してくるのは、何かわけでもあるのだろうか。
或いは投果を受け入れる、気にでもなった――?


おのれの心も体もどこか整わないことへの苛立ちがつのっていた孔明は、棘のある思考を止めることができなかった。

「宝玉を贈りたい女性がおできになったのでしたら、商人をご紹介いたしますよ」

女から男へ、好意のあかしとして果物を投げる。
その返しとして、男は女に、宝玉を贈る。永遠の愛のあかしとして。
古代ではそれで求愛が成立し、婚姻に至ったという。

投我以木瓜 報之以瓊玉 匪報也 永以為好也
投我以木桃 報之以瓊瑤 匪報也 永以為好也
投我以木李 報之以瓊玖 匪報也 永以為好也

私に瓜を投げた人に 礼として赤い宝玉を贈ろう 末永く共に在るために
私に桃を投げた人に 礼として青い宝玉を贈ろう 末永く共に在るために
私に李を投げた人に 礼として緑の宝玉を贈ろう 末永く共に在るために


『詩経国風・衛風』

―――ああ。なんて明るくほがらかな求愛の歌謡であることか・・・。


自嘲めいた嫌な笑いを喉もとで押し殺した孔明は真顔になり、顔をそむけた。一人になりたい。
薬湯のおかげか寒気は去っていた。かわりに胸中が炙られるようなじわりとした不快な熱さがある。臓腑に重いしこりのようなものを感じる。不調であるに違いない。
もう休みたい。
粗末な毛織りを重ねてつくったあたたかな闇の中で幼児のように丸まって。眠ってしまおうか。

「孔明殿」
音がしなかったので気付かなかったが、目の前に趙雲がいた。
鍛え上げられた長身の体躯にまとった澄んだ蒼天の色の鎧。いつもと同じ様子であるのに、いつもの気配とは異なっているように感じられた。
「趙将軍。・・今日はもう休みます。一人に、してください」
風邪気味で。うつすといけませんので。
もっともらしい言い訳は、言えなかった。
ゆっくりと唇を塞がれて、目を見開く。すこし触れただけで離れた。呆然と見上げると、彼はおそろしいような表情で見下ろした。黒い眸は翳り、笑ってはいない。

いつ見ても、若き軍神と見まごう偉丈夫である。
顔立ちは端麗であるのに眉頭がきりりと引き締まり、どこか荒々しい武威を感じさせる。
鍛えられた全身にただよう武人ならではの緊迫感と、人を惹き付けるのであろう優艶さが同居した、際立った容姿をしている。いつも思うことをこの時もまた孔明は考えた。

なぜこのような男が、わたしに執着するのだろうか。
軍師という立場も自分の性格も、けして親しんで愛でたいとおもうものではないだろうに。
まして、男でしかありえない躰しか持ちえないのに。


ふたたび重なった唇は今度は触れ合うだけのものではなかった。
深く重ねられて、唇を開かされ、舌がはいってくる。
「──んぅ・・・っ」
逃れようと後ろに下がると、肩が壁にぶつかり、やわらかいものが後頭部に触れた。
位置関係からして、そのやわらかいものは彼の手だった。
頭部が壁に激突するのを防いでくれた手はそのまま後頭部を支え、強引に上を向かされて口付けが続いた。なまぬるい唾液が口に広がり、小さな水音が響く。

肩に羽織った毛織りの布が床にすべり落ち、薄衣一枚になった躰を、彼の方に引き寄せられた。
鎧が触れた。鋼鉄の冷たさと固さに怖れを感じて息を呑んでいると、片手は頭部を掴むように押さえたまま、片手が腰をさぐるように撫でた。
「お待ちください。・・今日は、いやです」
具合が悪いのを、心配して訪れたのではなかったのか。
一人にしてくれと確かに言ったではないか。

無言のまま、相手の唇が首筋を這った。彼の長めの前髪が頬にふれて、最初は口が這って唇の先でくすぐられるだけだったのに、首と肩の境目あたりをいきなり舐められてひくりと身体が跳ねた。
「あ、・・っ」
首の皮膚のうすいところを狙うように少しだけ歯を立てられる。痛みよりもくすぐったさを感じるような淡い刺激に、おもわず呼吸がはずんだ。
「趙、――」
男の名を呼んで制止しようとする一瞬前に、きつく吸われて息を飲んだ。
痕をつけられた・・?普段の袍ではとうてい隠せないような場所に――
鬱血を癒すようにべろりと皮膚が舐められた。

なにか、おそろしくて、制止と非難を言うことができなかった。
この人は本当に、優しい男なのだろうか。


萎縮していると、手で中心をさぐられた。
躰を引こうとしても、後ろが壁で下がれない。
深く重なりあう口づけはより性的なものになっていき、片手で頭部を押さえて重ねられながら、中心をまさぐられた。

自慰にさえ長い間使われていなかった孔明の花芯は、布越しの刺激にも反応し始める。
「、・・あ、――」
そのうちに衣服をかき分けた手に直に触れられ、堅い武人の手の感触を感じて目をそむける。直に触れられると性感が急速に高まった。
こみあげてくる淫らな刺激に抗えず、快感としか言いようのない衝動がせりあがる。
口付けが解かれると、もう声を殺せなかった。
「・・う、・・・ぁ」
このようなこと、したくない。達したくはない。
こんな、立ったままで。相手は軍装をゆるめもしていないのに、自分だけが薄着の下肢だけを乱されて。無言の相手に思うようにされてなど。屈辱しかない。


また口が重なった。
後頭部を掴まれ、舌をねじ込まれた。口内を荒らして、奥に逃げた舌をつかまえられて舐められる。
よりいっそう激しくなる性器への愛撫に、身体がうずいた。刺激されるたびにそこに熱が集まってゆく。緩くされるともどかしく、強くされると快美が飛躍的に増幅した。
嫌だと拒否を示した言葉と裏腹に高められていく性感を認めたくはないというのに、意志と反して身体は熱を求めて昂ぶってゆく。
目を閉じると身体にわだかまる熱が喉元まで突きあがった。
溜まった熱を吐き出したい。
ふと離れてしまった彼の利き手に無意識に腰を浮かせると、先端を強く淫らに刺激されて、浮いた腰が思い切り反った。
「んぅ、ぅ・・・ああ―――!」
次の瞬間には、みっともない声を上げて、吐精していた。


弛緩した身体を、彼はこともなげに、寝台に押し付けた。
手の汚れをぬぐい、手早い仕草で帷子を脱ぎ始める。
なにをするつもりか明らかで、寝台に後ろ手をついて後じさった。
「・・わたしは、具合が悪く、熱が――」
「軍師殿・・・」
軍装を脱ぎ落して寝台に乗り上げた趙雲が、覆いかぶさってくる。
孔明は顔をそらした。
「嫌です。したくありません」
なにが不都合であるのか分からない。
本当に熱があるわけではない。もしあったとしても微熱であるだろう。
趙雲は情人で、こういう行為をするのは初めてでない。
まだ昼まで、夜ではないからということすら、言い訳にすぎない気がした。
だけど、したくない。どうしようもなく嫌だった。

「軍師殿。・・・孔明、殿」
武人の手が、身体を這う。常のような優しさはなく抗おうとした手は乱暴にしとねに押し付けられた。
嫌だ、―――。
こんな強引にされたことはない。いつもはもっと、こちらを気遣いながらことさらに丁寧に触れてくるのに。
「具合が悪いと言っている相手に、このような狼藉をなさるのですか」
「具合が、悪いから。私を拒んでいるのではないでしょう。あなたは」
長めの前髪からのぞく黒い目、整った鼻梁と薄い唇。
精悍な容貌は常と変わらないのに、知らない男のように見えた。
「――――――」
開いた目の奥底に紅蓮の炎がちらつく。ぶりかえした記憶が脳裏を焼いた。突然押し寄せてきた武将に兵卒たちに街を焼かれ、炎と無差別の殺戮の中を逃げ惑った記憶が。

古い記憶の恐怖に囚われて身体の心底から寒気がして指先がしびれ、心の臓が脈打った。弱きものは奪われる。逃げ惑うだけだ。
もがいても覆いかぶさる武人の身体は強靭で、押し殺せない恐怖に孔明の四肢はこわばった。
「・・・んぅ」
唇が重なって、舌が這入りこんでくる。飲み下せずにあふれた唾液が顎につたった。衣をはだけられて、素肌に手が這った。抵抗はすべて徒労に終わって、下肢にからみつく衣が乱される。

「隆中に、お帰りになりたいですか」
ぞっとするほど静かな声だった。
「帰しません。貴方は――私の、・・・・・いえ、我らの珠玉であるゆえ」
底知れぬ深さの声音に悪寒がした。
押し付けられた唇に呼吸を奪われて苦しい。息ができない。言葉が出ない。男の体躯と両腕に囲われていて身動きもできない。
苦しい。
重ねた口はそのままに、双丘のはざまを指先が這った。ひっそりと閉じている孔を性急な仕草で押し開こうとする。

私は女ではない。
濡れてくるわけではないのだから、何の準備もなくできるわけがない。
恐怖と反感に躰は強張り、後孔はますます萎縮してかたく閉じるのに、武人の指はそこをこじあけるように指を押し付けてくる。
「はっ、・・やめ――」
指先が身体の中に分け入ってきて、びくりと身体が跳ねた。
「い、――」
本来そういった用途に使うべきではない箇所を性急に探られた孔明は、声を詰まらせた。
趙雲の顔が下におりて、胸の朱粒をついばむ。なだめるように口で愛撫され舐められた。女相手ならば有効であるだろう愛撫をされて、余計に違和感と嫌悪をかんじる。
そんなことをされても、この身体は濡れてくるわけじゃない。
「・・・私は、女ではありません」
「知っております」
知らしめるように、趙雲の手がふくらみのない薄い胸をなぞり、くびれのない腰を撫ぜた。
無骨であり美しくもある武人の手。
馬を自在に操り、騎乗にてあざやかに槍を振るう強靭な手。
いずれ、遠からず妻を娶って、――女を抱く、手。

「・・・私は、女では、ない」
「ええ。――知っております」
先程とまったく同じやり取りを反芻し、その虚ろさに耐えられずに孔明は強引に身をよじって身体を起こそうとした。
叶わず、あっけなく寝台に押し戻される。とさりと背から落ちて、強く睨みあげた。
「なぜ、このような無駄な交合を、しようとするのですか」
「無駄――・・・・・無駄と、仰せになりますか」
強い眼光の黒い双眸が見開かれた。常に先陣を駆け敵を屠り、どのような激戦でも苦戦であろうとも決して屈せず闘志を保つと彼の兵らが自慢する若き勇将が絶句するさまを、複雑な心境で孔明は見上げた。
「貴方はいずれ遠からず、妻を娶って、女人を・・抱くのでしょう」
「軍師、殿」
「あなたは、先ほど。わたしのことを、私の、といいかけて止めましたね。我らのと言い直した。なぜ、あなたはわたしを抱くのです。まさか、――わたしを篭絡せよと、主公に命じられてーーー?」


ずっと不思議におもっていた。
最初からこの将だけが孔明を軍師と呼び敬った。劉軍の蒼龍とまで称される歴戦の武人であるというのに、少々学問があるというだけの書生あがりの文人の警護につき、心身を尽くして守ってくれた。
ほどなくして身を寄せ合うようになり――身体をも繋げるまでになった。

どうしてだろう。なぜ。
街に出れば庶人の娘から何度も投果を受け、雨あられと縁談があり、武威と誠忠を見込まれ富貴な筋からの婿入りやらの申し出までもがあるというのに。
そのすべてを断って自軍の新参軍師などを抱くのは、なぜなのだろう。

劉備に忠誠を誓っているから、か。
故郷を恋しがって泣く童をなぐさめて抱きしめるのと同じように。
いまだ荒々しい軍団になじめずに隆中の気ままな暮らしに心を残す軍師を手なずけて、軍に残すために肌を合わせているのだとしたら。

あまりにも虚しく、そして――臓腑が焼けるほどに悔しく、哀しい。

 






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(2021/5/1)

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