星の消えた夜に1  趙孔(私設)


*孔明が可哀想だったり怪我したりする展開が駄目な方は避けてください







溝ができたのはいつだったか。

義兄弟も嫉妬するほど親密で、水と魚のような関係だと笑っていたのは、はるか昔のことのように思える。
荊州と益州を領有すべきです――
その提言にいたく感激して諸葛亮を軍師として迎えたというのに、劉備はそのどちらを取ることもためらった。
ためらいを正当化するように諸葛亮を責めた。

劉表殿には恩があったのに
劉璋殿とて同じ劉姓であるのだし
義も情もそなたにはないのか

規律と合理性を最優先する諸葛亮は次第に遠ざけられ、他の軍略家を好んで傍に置いて頼るようになり、その者たちと共に、劉備は益州を手に入れた。





詳細に描かれた地図を眺めて書に書き込みをしていると、灯火の炎がゆらりと揺れた。
しばらく揺らいでから白く細い煙が上がり、かすかな音を立てて燃え尽きる。

諸葛亮の執務室の灯台に注がれる油は、制限されている。
明かりに使う油をたっぷり注ぐといつまでも執務をしてしまうので、軍師の身を案じて困り果てた周囲が示し合わせて、夜が更けると灯火が消えるようになっている。

「軍師様、お休みください」
灯が消えると夜警の衛兵がそっと声を掛けてくる。
さすがに机を離れるしかない。
諸葛亮は地図を巻き閉じ、立ち上がった。

執務室から出て、書庫が連なる奥まった突き当りの部屋が休息所になっている。
小さな明かりをたよりに室に入り、長袍を落として寝着を着こむ。
頭頂に上げていた結いを解き、寝台に上がった。

明かりが消えても、実は諸葛亮が執務をすることを止められるわけではない。
諸葛亮はいつでも克明に地図を脳裏に描くことができたし、いかに長文であろうとも記憶に残し、再現することができる。

今も夜闇の中で目を開いたまま、脳裏に広げた地図に筆で書くように書き込みをし、軍を配置し、豪族の動向に思いを馳せ、複雑な軍令書を書き上げていた。
脳裏で拡げた地図を仕舞い、書き上がった軍令書を巻き閉じて横向きになり、目を閉じる。

目を閉じても眠りは訪れない。
横たわっていても脳内は回転をし続け、押し寄せる膨大な情報が交錯し、駆け引きや計略が止まることを知らずに巡り続けている。
知略の働きを止めようとすると、今度は感情的な自省が渦巻く。
過去の決断への後悔や、未来への不安が次々と波のように押し寄せる。
私が悪いのだろうか
私が間違っているのだろうか
どうすればよかったのか

……そなたは冷たい

「……っ」
頭部ににぶい痛みがあり、胸にもするどい痛みが走った。
寝返りを打ち身体を丸める。
いつから眠りがこのように遠いものになったのだろうか。
昔はどうやって眠っていたのだろう。昔だって不満も不安もあった。だが気楽な身だった。夜更かしが好きで、朝寝も昼寝も好きだった。
昔はひとりで居るのが好きだった。
何を見ても、何をしても、何も見なくても、何もしなくても。幾日でもひとりで居られた。
いまは、牢獄のような夜の闇の中でひとりっきり…こんなにも孤独だ。

圧し潰すような夜闇に耐えかねて、諸葛亮はふたたび脳内に地図を広げ、政務に没頭した。







「家を持ちたいと思うのです」
湯気の向こう側にある精悍な容貌の将が、穏やかに云った。
意外だった。
城の執務室の奥で寝起きしている諸葛亮と同様に、趙雲も城の兵舎で起居している。
屋敷を構えたところでどうせ帰らない。やることはいくらでもあり、行き来する時間も手間も惜しい。
趙雲もまた、そういう考えでいるものと思っていた。
「心境の変化がありましたか」
「ええ、まあ」
澄んだ若竹色の茶からたちのぼる白い湯気に、将が目を細める。

「それで、軍師殿にお願いがあるのです」
「なんでしょう」
茶を煮た鼎をどかし、別の鉄器を置いた。夜に茶を飲むと目が冴えてしまう。
薬草を保管した棚の前に立ち、ひとさし指を唇にあてて考える。
柴胡、茯苓、甘草、当帰。
気休めを求めているのか。いくら薬湯を飲んだとて眠りは得られないと身をもって知っていても、飲むとすこし落ち着く。
調合した薬草を煮出して薬湯をつくる、ほろ苦い匂いに将が目を伏せたことに諸葛亮は気付かずに、出来上がった薬湯を椀に注いで、卓についた。

「軍師殿がお住まいであった隆中の家、あのようなものが良い」
「隆中の…」
「あの家は、冬は暖かく、夏は涼しいという仕掛けをしていると、そう言って軍師殿は誇らしげにしておられた」
そうだった、気もする。
「家の中心に炉があり、あなたはそこで粥を煮て、私に馳走してくださった。覚えておられるだろうか」
「ええ。そう、でした」
劉備に仕えると決めたあと、新野から馬が届けられた。
馬を届けさせる、それに乗って樊城に出仕せよ。劉備はそう言った。
なぜあの時やってきたのが、この人だったのだろう。


「屋敷を構えるということは決めましたが、私には、馬を飼う厩舎をどうするかということ以外、何も浮かばないのです。軍師殿、どうか私のために家を一軒、見繕っていただけないだろうか」
「しかし、あれは庶民の住む家でしたので」
「格式は、どうとでも。あなたが昔、主公に出会う前に暮らしていたあの家のように、ただくつろげる家にしていただけたらと、おもいます」



弟と暮らした家。少年から青年へと成長した弟は、かわいい嫁御をもらい出ていった。
諸葛亮が作る変わった道具を求めて村人が出入りし、炉端で子どもたちに文字を教えていた。知恵を貸してくれと村長もよく来ていたし、水鏡先生門下の友人もたまにやってきていたっけ。

その夜、寝床にはいった諸葛亮は、趙雲にいわれた旧宅の様子をぼんやりと考えた。

裏には小川が流れていて、水を汲むのにも色々なものを洗うのにも都合がよかった。
小川の先に畑があって、野菜と薬草を植えていた。土をつくるにも肥料にも、耕す農具にも植える作物にも、考えられる限り改良を重ねていた畑で採れる作物は、村でも評判の出来の良さだった。

思い出をひとつひとつ掘り起こす。

夏には、虫が入らないように風を通す細工がしてあった
冬には、家の中心にしつらえた炉に薪をくべて、床があたたまり家全体に暖気が行き届くよう工夫がしてあった
秋には、庭先で月を見上げた
春には、種をまき苗を育て、さまざまな植物を育成して


いつしか諸葛亮は、夢もみない眠りに引き込まれていた。



朝になり、起きてこない軍師を案じて、従者が顔を出す。
「軍師様、具合が悪いのですか」
「いえ……」
眠りすぎて、頭がぼうっとする。
政務の間に出ても、それは変わらなかった。
頭が重く、身体も重い。
昨夜はよく眠れた。よく眠ったほうが、不調である。それだけ深く心身が蝕まれているのか。
本当は医官に相談したほうが良いのだろう。だが、周囲に弱みを知られると思うと踏み切れない。


「今日も、すさまじい数ですね」
運びこまれる書簡の束を見て、若い文官が嘆息した。
書簡はこれから一日中増え続ける。
暗く翳る気持ちを隠して、集まってくる文官たちに仕事を振り分けようとしていた時。

「趙将軍…!」
明るい声が上がり、ぱっと辺りが華やいだ雰囲気になった。
あらわれた偉丈夫を、文官たちがうやうやしく拱手して迎え入れる。
「お迎えに参りました、軍師殿」
野外で馬を駆る程度の、武装ともいえない軽やかな出で立ちは、将の若々しい面貌をさらに若く見せていた。

「趙将軍と、お出掛けなさるので?」
長袍をまとった諸葛亮と見比べて、軍師府付きの侍従長が困惑した声を発する。勇将に接して華やいでいた文官たちも戸惑い顔になっている。
長机には山積みの書簡。軍師を連れていかれては困ると皆の顔に書いてあるのに、将はほがらかに一蹴した。
「軍師殿には、私の私事に付き合っていただく約束なのだ」
すがすがしいほど場の空気を読まぬ発言に、侍従長は言葉をつまらせ、文官たちはぽかんとする。


『私邸を建てる場所は、見当がついているのです。軍師殿に見ていただきたい』
そう言っていた気はするが。それが今日だという約束をした覚えはない。
「たいした距離ではありません。その恰好のままで結構」
うやうやしく手を取り歩き出そうとするのに、文官たちが追いすがる。
「ちょ、趙将軍」
将は振り返って文官たちに向き合い、ことに侍従長に向けて丁重に述べた。
「すまぬが、この趙子龍に軍師をしばしお預けいただけまいか。私事なれども、私にとっては大切な用なのだ」
趙雲に対してまったく恩がないという者はその場におらず、趙雲を尊敬しない者もまたこの国にはいない。
ゆるぎない存在である将のたっての願いをしりぞける者はおらず、自然と道が作られた。


諸葛亮が断るとは考えていなかったのだろうか。
園庭の木立には周到なことに二頭の馬が、鞍が置かれて繋がれていた。
「ああ…久しぶり」
眉をさげて愛馬に挨拶をする。このごろは役所に篭り切りで、移動も馬車で済ませ、申しわけないほどにご無沙汰だった。
厩舎で大事に世話されているらしく毛艶はよく、馬体に衰えはない。
諸葛亮の愛馬といえる馬は、これで二頭目だった。
一頭目の馬は劉備から拝領した良馬だった。
その馬が老年になるころには、すでに劉備の諸葛亮への傾慕は薄らいでいて、二頭目を賜ることはなかった。
だからこの二頭目の馬は、趙雲が選んでくれた。

朝日がまぶしくて、諸葛亮は瞬いた。
太陽とはこんなにもまぶしいものだったのかと、あらためて驚く。
趙雲の馬は諸葛亮の愛馬よりひと回りも大きい。
よく手入れされた毛並みが優美な悍馬が、並んだ諸葛亮の馬を気遣うようなそぶりをしているのが、微笑ましい。

「いい風ですね…馬で駆けるのは久しぶりです」
「私にとってはこれほど爽快なことはないのですが。軍師殿にとっては書物にかじりつくほうが、楽しいのでしょう」
「え、え…」
諸葛亮はあいまいに笑った。
書を読むことがなにより楽しく好きだったのは、過去のことだ。
いま、日に日に膨大な数の書簡に目を通すことは苦痛でしかない。
脳から腹までが黒く染まるような種々の策謀が渦巻く政治と軍事の案件。無味乾燥とした報告書。
積み上がった書を読んでも読んでも物事は片付かず、読めば読むほど困りごとが増えていくばかりで、それでも早急に対処して解決しなければならない重大事ばかりなのだ…。


小高い丘を越えたところが、目的地のようだった。
なるほど趙雲が云った通りたいした距離ではない。
これならば城へと往復するのも、そう苦ではない。天候さえ悪くなければ、馬で駆けるのは爽快であるだろう。

遠くに山が望めるのも、素朴な野草が生い茂る鄙びた野原といった風情もよかったが、なによりも。
「成都に、こんな場所が」
目の前に、睡蓮の咲く湖があるのだった。

「この湖が、気に入ったのです」
馬から降りた趙雲が云った。
諸葛亮もまた、一目で気に入った。
一周すると七里(3km)ほどであろうか。明るく静かな湖面の三分の一ほどに無数の睡蓮が群れ咲いている。清楚な白と可憐な薄紅、青色のものもある。
そして岸に近いあたりには大輪の蓮が咲いていた。

「里人が申すには、むかし仏僧がこの湖のほとりに庵を結び、蓮を育てていたとか」
「ああ、…仏の教えと蓮の花は関係深いと、聞いたことがあります」

庵とやらは既に見当たらないが、周囲には風情のある花樹が植わっている。
湖を周遊できる小径があったようで、いまは草に埋もれている。
風光明媚というべきか、自然の景観と人の手で丹精されたものが調和して美しく、吹き渡る風も涼やかである。
早朝にこの水辺を散歩したら、どれほど心地良いことだろう。
夕暮れや夜には神秘的な光景が広がるだろう。
昼の岸辺で、あるいは小舟を浮かべてのんびり釣りをすれば、さぞかし風が爽やかなのでは。

この湖水をのぞむ場所に屋敷を建てたいということなのだ。
まるで我がことのように諸葛亮の心はときめいた。

「どうです、軍師殿。腕がなるというものでは?」
諸葛亮がその気になっていることはとうに見抜かれ、趙雲は馬の首を撫でながら笑っている。
「どのような規模の屋敷にされたいのですか」
「厩舎は、馬が3,4頭ほど入るものを、と考えているのですが。さて、屋敷とは、何があれば、よいのでしたか」
「もう、あなたときたら。住む人の数は、いかほどです…か、」
急にある可能性がよぎり、諸葛亮ははっとした。
「…妻女をお迎えになりますか…」
胸中に湧き起こった痛みを黙殺して諸葛亮は穏やかに微笑んだ。

急に屋敷を構えると言い出したのは、そういうことか。延ばしに延ばしていた婚姻をついに結ぶ気になったのか。
屈託なく趙雲が応じる。
「住むのは私ひとりです。あとは、客人を迎えたいので、それなりの造りを。使用人は、いくばくかは住まわせようと考えてはおりますが」
「ひとり…」
妻女を迎えるための屋敷ではない…と?
どのような顔をしてよいか分からずに諸葛亮はうつむいた。




「では、湖を望む方向に居間をもうけて、あなたがくつろいだり客を迎えたりされ、その並びに居室と寝間を配するのがよいでしょう。中庭を設けて反対側に厨房や沐浴所などを置いて……ああ、趙雲殿」
「なんでしょう」
「湖を眺めることのできる浴槽を設置するのはどうでしょう。囲いをなくして、休日の朝は湖を、夜は星空を眺めながら湯につかるなんてことは」
「それはいい。ぜひ、そのように」
「井戸を掘れるか確かめなければなりませんね。井戸のそばに水場をまとめて…、それから庭は、素朴な山里のようになさっては」
馬に乗ってひと回りしてあれこれ話し合い、その日は帰城した。




「仏の教えで蓮花が尊ばれるのは、泥の中から咲いて泥には染まらぬ清らかな花であるから、だそうですよ」
泥土の底から茎をのばし、水の上に清らかな花を咲かせ、やがて実を結ぶ。そのさまはなるほどしなやかで強く、尊いと思う。
「戦乱という底知れぬ泥のなかで大志をいだく、殿のようでもありますね」
「そう、ですね。軍師」
「殿の大志を花開かせ、実を結ばせるのが、我らの役目でありましょう」
趙雲と二人、湖のまわりをそぞろ歩く。
蓮の花期は終わり、睡蓮も咲いている花は少ない。枯れかけた茎とすこし色褪せた葉が水に浮いている。
蓮も睡蓮も泥の中に根を張っており、毎年花を咲かせるのだそうだ。

湖水を見下ろせる小高い場所で何人かの職人が作業をしている。
諸葛亮が引いた図面をもとにした邸宅が建設中である。
はじめてしまえば生来の凝り性が発揮され、何度か訪れて自身で測量をして図面を引いた。
隆中の家よりもさすがに広いが、それでも大きいとはいえない。
格式の高さよりも鄙びた風情と居心地のよさを優先させており、趙雲もそれが望みだと承知している。
住みやすいようあれこれと工夫を凝らす予定である。

「これはまた、なんという」
諸葛亮の奇抜な発想に職人は目を丸くして、熱心に仕掛けの仕組みを問うてくるのに工夫のしどころを教えてやり、打ち合わせる。
ありきたりの材料でつくる面白い仕掛けや住みやすい工夫に職人は感心しきりで、諸葛亮も楽しんだ。

「このところ顔色が良いようです」
「ええ…あなたに強引に連れ出されて、出歩いているのが功を奏しているようです」
諸葛亮はおだやかに口元をほころばせた。盛りであった蓮が咲き終わりになる間に、ひとつの季節がゆるやかに通り過ぎる間に、心身のありようがずいぶんと変わった。
閉じこもって書を裁くばかりの重苦しい日々からひととき連れ出され、太陽の下を出歩いているうちに、自分は苦しかったのだということに気付いた。
毎日が緊迫し、見えない鎖に心身が締め付けられているようで、苦しかったのだ。
苦しいことを苦しいと感じることさえ出来ないほど疲労して、心が擦り減っていた。

諸葛亮の測量により掘り当てた井戸で水を汲み、喉を潤す。
水を飲み干して、大きく息を吐いた。
汲んだばかりの冷水が喉を通り過ぎる快い感触、みぞおちにいつも感じていた痛みはやわらぎ、かわりに軽い空腹感がある。
食事を取ることも、夜眠ることもできなくて、息をすることさえ上手くできていなかった。

時にこうして出歩いているが、政務の手を抜いているということはない。
ことに蜀科が制定されたあとは、すこし重荷を減らせたような気がする。
諸葛亮の裁かねばならないことも多いが、諸葛亮がいなくとも回るように人材を育てることも必要なのだと感じ、優秀な文官を選んで重要な仕事を任せるようになっていた。



またすこし季節が進み、山野がすこしばかり紅葉しはじめた頃。
呉公孫権の妹である孫夫人を離縁していた劉備の妻を新たに迎えることになり、婚姻を結ぶ儀式がしめやかに行われた。
益州の地盤が固まる中で、劉備は漢中を攻める準備を着々と進めている。
それらの決定に対して諸葛亮は関わっていない。
決定に関しては蚊帳の外だったが、当然のように膨大な仕事が回ってくる。
様々な手配に細かい根回しにと降りかかる執務に忙殺される。
泥沼に浸かって藻掻いているような日々を送っているうちに諸葛亮は、一時的に持ち直していた心身に、再び不調をきたすようになった。
夜毎に孤独を噛み締め圧し潰されそうになりながらも、誰にも言えず、ただひたすらに政務に打ち込んだ。





諸葛亮は昼下がりの森で馬を止めていた。
「軍師様、お伏せ下さい!」
付き従う若い護衛兵が緊迫した声を張り上げるなか、矢が近くの樹に突き立つ。
強い風が吹き抜けて、森中の木々を激しく揺らした。鳥たちが一斉に飛び立つ羽音が空に満ちる。
兵は剣を抜くも、緑陰の影にひそむ暗殺者の姿は見えず、どこに何人存在するのかも分からない。
諸葛亮を囲み必死で守る護衛の剣が一矢を弾き返した。別の矢は馬のすぐ脇をかすめて地に突き刺さる。
迎撃するのか、逃げるのか。逃げるならどの方向に。
護衛の判断に迷いが生じる中、びゅうと風を切って飛来した黒羽の短矢が、諸葛亮の肩に突き立った。
「軍師様!」
落馬だけはするまいと手綱を握りしめ、矢の飛んできた反対の方向へと馬首をめぐらす。
「このまま馬を走らせます」
樹の上に居るのなら追ってはこれまい。前方に伏せ兵がいれば厄介だが、方向的にそれはあるまい。
急所は外れ、それほどの深手ではないはずが、しだいに目が霞んでくる。
毒――
護衛兵にかばわれながら味方の兵が駐在する屯所に駆けこんだ時には、意識は半ば失われていた。



「お前たち、軍師をお守りできなかったのか!」
聞き慣れた声が、すさまじい怒号を放っている。
荒ぶるのは声だけでおさまらず、将は護衛兵を端から殴り倒していく。
膝をつき軍礼を取ってかしこまる
護衛らは弁解もせず抗いもせず、ただ将の拳を受ける。

「趙…将軍」
身を起こそうとして起こせなかった。肩と背に痛みが走る。手足に力が入らず、動かせない。目が霞んでものの輪郭がぼやけていた。
「軍師殿」
すぐに趙雲が駆け寄ってくる。
「制裁など、……止…め…」
舌もしびれたようになっていて、うまく言葉を紡げない。

「この者たちは貴方の護衛なのです。なのに、貴方一人が怪我を負っている。自身の身を裂かれても軍師をお守りするのが、護衛の役目なのです」
将に殴られて倒れたものは身を起こせずに地に這いつくばってうめき、ただ護衛の隊長だけがかろうじて起き上がり軍礼を取り直し、うつむき肩を震わせている。
かすんだ目で見ても、誠実な兵らの惨状は哀れだった。 

「……彼らに、落ち度は…、あり…ません……私の、」
もっと護衛の数を揃えて外出をと進言する彼らを留めたのは、諸葛亮だった。
彼らは怠惰でも臆病でもなかった。敵は樹上に身を潜め、立て続けに矢を放ってきた。馬を捨てるという選択肢もない以上、身を呈してかばうということすら難しい状況だったのだ。

「分かり、ました。今日の過ちは、次の戦功で償わせます。軍師、もう安静に」
寝かせようとする趙雲に、諸葛亮は取りすがった。
「……遺言を、…」
成都の城址近くで暗殺しようとする執念からして、毒は致死のものだろう。
意識のあるうちに、遺言を残さなくては。
でも、なんと。考えがまとまらない。
趙雲が信じられないという顔をする。
殿に、なんというのか。
鳳雛は飛翔することなく落ち、臥竜もまた天に届かぬうちに落ち――申し訳ありませぬ、と?
殿は、泣かれるであろうか、とそんなことを思い、そして。
「軍師…、気を…確かに」
「趙雲…殿」
さいごに見るのがこのひとの顔であるのは、しあわせなことなのだろうと思い、意識が途切れた。


短い昏倒から覚めると、軍医が脈を取っていた。
「強い毒ですが、肩の骨で矢じりが止まり傷が浅かったのが、幸いでした。しばらくは手足が痺れて不自由されましょうが、数か月もご静養なされば、完治されると存じます」
「………死なないの…ですか」
するりと零れ落ちた声音は、どうしてだか落胆に満ちていた。
矢毒が身体を巡り、目が霞んで四肢に力入らず崩れた折に考えたのは、自分が死んでからのことだった。
政治を、外交と行政と軍事を、誰に託すか、ということを。
そして、諸葛亮が死ねば。
諸葛亮の主君は、泣くだろうか、と。
泣くだろう。号泣するに違いない。きっと滝のように涙をこぼし、そうして別の智者にすがるのだ。
いま主君が信望し一途に頼っているのは、諸葛亮とは真逆のような性情をもつ、軍事にも政治にも並外れた異才を発揮する智謀の男だ。

諸葛亮はしばしの間、虚脱した。
このようにぼんやりとした視界では書を読むことはできない。このように痺れる手では筆を持つことができない。
だが、侍者に音読させ、代筆させることはできるだろうか。
政務に、戻らなければ。

「静養が、必要なのだな?」
軍医に念を押す、圧し潰すように強く低い声が響いた。握った拳が震えているように見えるのは、諸葛亮の視界が揺れているからなのか。
抱き上げられて、気付いた。
彼の手は確かに震えていた。感情を無理やり押さえつけたような微笑を浮かべて諸葛亮を見た。
「軍師殿が静養なさるのに、うってつけの屋敷がある。そこにお連れしましょう」
「趙…将軍」
「殿にはあとで話をしに行きます」
馬車に乗せられ、揺られ始めるとすぐに意識をなくした。

次に目を覚ましたとき、身体はまだ虚脱したままだった。
毒に痺れた手足とは別に、いかなる気力も湧いてこず、何かをしようとする意志もなかった。
趙雲が傍にいた。手桶に張った水で布をすすいでいた彼は、はっとしたように振り返り、安堵の表情を浮かべる。
「諸葛亮殿。お加減は」
「……趙雲…殿」
「熱を出しておられたのです。ああ、すこしは下がったようだ」
「…私は、…どのくらい寝ていたのでしょう」
「二日とすこし。もう、夜が更ける時分です」
「そう…」
夜が深く、明かりを点けていない部屋は、窓から射しこむ月光だけが頼りだった。
うつくしい光が室内を浮き上がらせていた。あたたかみのある薄肌色の壁、天井は、長身の諸葛亮でもゆったりと動けそうな高さで、見知らぬ場所なのに、どうしてだか懐かしかった。
「ここは……」
「私の屋敷です。まだ完成はしておりませんが」
「では、あの」
「ええ、そうです。ご覧になるとよい」
そういって趙雲が開いている窓の板戸をさらに押し上げると、外には月光をあびて静かに水面を輝かせる湖水があった。
かすむ視界にその静謐な様子を目に入れて、諸葛亮は細く息を吐き出した。
「ここには貴方をわずらわせるものは何も、ありません。御身体が復調されるまで、ゆっくりと休まれよ」
趙雲がそういいながら、諸葛亮の身体に上掛けをかぶせる。
「趙雲殿」
「はい」
「私は、政務が」
「……軍師殿は、ご自身のお身体のことを第一にお考えください。御身が快癒なされば、また政務にお励みになることができるのです」
趙雲の声音はどこまでも優しく、諸葛亮をいたわっていることがよくわかった。
「私は……」
何を言おうとしたのか自分でも分からない。

夜更けだというのに運ばれてきた、噛まなくても良いくらい煮込まれた粥を口にすると、また眠気が襲ってくる。
趙雲は目を細めて微笑し、寝台のかたわらに膝をつくと、そっと上掛けの上に手を置いた。
「どうかお休みください」
身体のどこにも触れられてはいないのに、彼の身体から熱が伝わってくるように、諸葛亮の身体にぬくもりが戻ってくる。
諸葛亮は息を吐き出し、ふたたび吸い込むときには眠りに落ちていた。


目を覚ますと、また日が暮れていた。
いったいいつの夕暮れなのだろうか。どれほど眠るつもりなのだろう。
「軍師殿」
武袍を着た趙雲が入ってきて、諸葛亮は身を起こそうとした。しかしそれすらもできずに僅かに身じろぎするにとどまった。
「そのままで……水をお持ちしましょう」
椀を渡そうとして、すべての動作がままならぬほど身体が重いのだと気付くと、趙雲はそっと手を添えて助け起こし、口元で椀を傾けた。ゆっくりと飲み下す。
「……ありがとうございます」
「いえ。具合はいかがですか」
「だいぶ良いようです。痛みはありません。ただ……」
諸葛亮が言い淀んだことに、趙雲はすぐに気付いたようだった。
「手足に力が入らないのですね」
「ええ…」
「お焦りになることはない。今日、州城に伺候して殿に拝謁してきました。完治するまで十分に養生せよとのお言葉です」
「殿が…そうですか」
「法正殿はだいぶん不貞腐れておいでだったが。なに、有能なあの方なら、なんとかしてくださるでしょう」
「…そうですね」
思わず笑いがこみ上げた。法正は、趙雲が諸葛亮を屋敷に匿ったことが不満であるに違いない。この小さな屋敷は法正にとっては虎の穴も同然で、いかにうかつな怪我を負った諸葛亮に対して文句が山積みであろうとも、踏み込んでくることはできまい。
あの切れ者なら、この不測の事態に対処する方法などいくらでも考えつくだろう。

介助されながら山鳥と菜を煮込んだ羹を口にした。
滋養ある風味がありがたくも申し訳ない心地になる。
趙雲は寝台の傍に引き寄せた床几に腰を下ろした。
「もうすこしお休みください」
「……しかし」
「軍師殿がお目覚めになるまで、私はここにおります。貴方はなにも案じなくともよい」
諸葛亮は、趙雲の真摯な眼差しを受け止めた。その眼には深い労わりがこめられている。
「私は……」
「はい」
「私は、軍師失格ですね。このような失態を……殿にもあなたにもご迷惑をおかけして」
「それは違います」
趙雲がきっぱりと言った。
「それをいうのなら、私は将として失格なのでしょう。軍師の護衛は、私の隊の者なのだから。私は――殿に、降格を願い出てきました。受け入れられはしませんでしたが」
諸葛亮は趙雲を見た。将は笑みを浮かべている。
「私は、軍師の傍におりたいので、しばらく軍務から退きたいと願ったのです。そちらのほうは、殿にお許しをいただきました」
「趙将軍……私は、殿の寵を失いつつある者です。そのような者に肩入れなさると、あなたのお立場まで…あなたまで、殿に疎まれてしまう」
「殿の御心は、殿のものです。私は殿に忠誠を誓い、誠心誠意お仕えする、そのことに生涯変わりはないのです。ただいっとき、忠義とは別の、――私は、私にとって大切におもう方を守りたい、ただそれだけです」

その瞬間、諸葛亮は、趙雲と諸葛亮の二人ともが意識的に示し合わせて引いていた一線を、強く意識した。

諸葛亮が最も信頼して策の要に用いる武将は趙雲だと誰もが知っている。
その二人の間には、境界線がある。
長坂で趙雲の死を怖れた諸葛亮と、赤壁で諸葛亮の危機を自身の手で脱させた趙雲のあいだに、絆が生まれた。
その絆と同時期に、その境界線もあらわれた。

いついかなるときでも。
軍の者と平服で大勢食事をしている時も、あまたの武装した将兵が行軍していようとも、州城でどれほど多くの正装した文武の官が群れ集まっていようとも。
諸葛亮はいつもさいしょに、趙雲の姿を探す。
趙雲の視線もまた、諸葛亮を探し出す。
互いがいま何をしているかを案じ、確かめて、刹那に視線を絡ませる。
将として軍師を案じ、軍師として将を案ずる、仲間をおもう当たり前の心持ちをはるかに逸脱していることを、互いに痛いほどに感じて、そして。
触れることもなく、なにか言葉として伝えたこともなく、この線は越えないという暗黙の境界線を引いた。

その一線の向こう側から、その一線を越えようとする眼差しを、趙雲はいま諸葛亮にそそいでいる。

「貴方は私のたいせつな方だ。軍師殿……孔明殿」
趙雲は諸葛亮の手を取った。毒にしびれた指先にもその手の力強さと熱は確かに感じられた。
手に降ってきた雫の感触に目を上げれば、趙雲が静かに涙を流していた。
「貴方は、私と深い関係を結ぶのを、望んでおられない。だから、私も黙っていた。だが、貴方は疲れ果て、あげく、死を望んでおられる……貴方の望みはなんでも叶えて差し上げたいが、そのようなこと、許せるはずがない」

死を望んだわけではない。
だけど、死が安らぎをもたらすのではと、心によぎっていたのは事実だった。
この優しい人を苦しませ、このように悲嘆させてまで、守ってきたものは何だったのだろう。
何のために線を引き、絆を深い縁に変えることを拒み続けたのか。

いつ死ぬか、分からないから。
深い関係になって、どちらかが死ねば、互いが互いの、深い傷になるだろうから?
それならばもう手遅れだ。もう、互いが互いの心に食い込み過ぎている。
「あなたが、死ぬとしたら。きっと、私の為した策によって、です。だから…」
「生きます、私は」
強い口調で趙雲は言い、諸葛亮の手を強く握りしめた。
戦乱の世に確かなものはなく、人ひとりの思いが通るほど甘くはないと、身を持って知っているだろうに、その言葉に揺らぎはない。
「戦場で死ぬのだろうと、以前はそうおもっていました。でも、貴方に会ってからは。死ねない、と。戦場で死ぬのだけは駄目だ、生きるのだと、決めて、私は生きている。なのに、貴方が、私を置いて行かれるというのか」
言葉とともに新たな涙が精悍な頬に伝い落ちる。
「泣かないで下さい、趙雲殿……どうか」
「貴方がお泣きにならないからです、孔明殿。だからかわりに私が泣いているのだ」
諸葛亮は震える手を伸ばし、趙雲の手に重ね合わせた。
この人を苦しませたくない。悲しませたくはない。

「どうすれば、泣き止んでくださるのですか」
いつも労わってくれる眼差しに応えたい。
いつも労わってくれる手を握り返したい。
いつも守ってくれる人を、その身を、その心を、守りたい。
この人が、この身を、この心を、守ってくれているように。

「私は、生きます。だから、貴方も、私とともに生きてください」
趙雲の言葉も涙に濡れた眼差しも、重ね合わせた手の熱さも強さも、忘れることはないだろう。
どのような苦境になろうとも、そしていつか本当に別れることになったとしても、決して私は独りではないのだと、確かに、信じられる。
「ええ……はい」
諸葛亮の目からも、涙がこぼれ落ちていた。

 






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(2024/10/8)

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