星の消えた夜に2  趙孔(私設)








「粥です、孔明殿」
「え、え…」
趙雲の手を借りて身を起こした諸葛亮は、寝台の上で小さくなっていた。
「さあ、冷めないうちに」
「…」
毒矢によって負傷してから、半月とすこし。
そのあいだ趙雲は殆ど出仕もせずに看病している。
視力と舌の動きは戻ってきた。だが手足の痺れに関してはあまり変化がない。手で匙くらいは持てるものの、口に運ぶ間に震えてしまう。
それで趙雲が、雛鳥にえさを運ぶ親鳥さながらに、食事の世話を焼く。
恥ずかしさを感じながら、口元に運ばれた匙の中身を、口に含んで咀嚼する。
細かく刻んだ多種の具を混ぜて炊いた粥は、熱くて美味だった。
「おいしいです…」
「それはよかった」
この邸宅に運ばれた当初まだ完成していないと言っていた通り、病床にいる諸葛亮にも屋敷を造成している様子がうかがえたが、厨房が整ったのだろう。出てくるものの味が格段に良くなっている。
「果物も召しあがるといい」
「ええ、ありがとうございます…」
さすがに飲み物を飲むくらいは自分でできる。
食後に差し出された薬湯を飲んでいると、胡床に腰かけた趙雲がうれしげに目を細め、諸葛亮を見ていた。その眼差しの甘さに、苦い薬湯に蜜がまぶされたような心地になる。
薬湯を飲み干すと、「よく飲まれた」と褒められるのも気恥ずかしい。

「少し休まれたら、散歩に行きましょう」
従者に食器を下げさせて、窓を開け放つ。
秋が深まり、空が高い。
「湖まで…?」
「ええ」
散歩といっても諸葛亮が歩くわけではない。冷えないようにと着せかけられた外衣ごと、うやうやしく抱き上げられるのだ。
これも気恥ずかしいが、寝台から出て外の空気にふれることはうれしい。
庭はまだ出来ておらず、草を刈って均しただけの荒れ地である。
草を踏みならしてできた小径を下りていくと、ひんやりとした風に爽やかな水の匂いが混じる。

睡蓮の花期は終わり、赤や黄の落ち着いた秋色を纏った愛らしい形の葉が水に浮いていた。
水辺の草が風にそよぐ。岸辺近くの水面は澄んでいて、小魚が銀色の背をひらめかせて泳ぐ様が心をなごませた。
ただ彼方の山々の輪郭が霞んでいるのは、視力がまだ完全に回復していないからだろうか。
趙雲が諸葛亮を運ぶ足取りは揺るぎなく確かなもので、身体に感じる温もりも力強い。
水辺の牀几に降ろされて、しばしぼんやりとくつろいだ。
鳥の鳴き声しか聞こえず、静かだった。


「お身体が辛くないようでしたら、今日はこちらに」
また抱き上げられて屋敷に戻り、寝室ではなく居間のほうに連れられる。
真ん中に囲炉裏があり、気付きにくいが実は床が一段高くなっている。
薪を燃やすと熱が床下を伝い、床全体が温まるという仕組みは、隆中で諸葛亮が考案したものだ。
地位のある武人の邸宅で、客を迎える応接間としても使うのであれば質素過ぎる。
だけどこの素朴なつくりはなつかしさをさそい、胸が締め付けられた。
まだ長時間座っていることは難しく、壁にもたれることのできる場所に円座を敷いてもらい、その上に座ると、冷えないようにと薄い毛織り布で肩から全身を覆われた。
諸葛亮が設計したとおり、湖に面した側に壁はなく、解放的にひらけている。
「このようにひらけていては、冬になったら冷えましょうか」
「成都の冬は、それほど寒くないでしょう。私の故郷は、北方ですから。まるで違う」
「常山真定、ですね」
「はい。思えば、遠くまで来たものです。貴方も、私も」
「そうですね…」

しばらくの間をおいて、布にくるまった諸葛亮は膝を立ててすわり、その膝を抱くという童子のような格好で、つぶやくように云った。
「趙雲殿……もし間違っておりましたら、恥ずかしいのですが」
「なんでしょう」
「…この家は……私の、ためではないですか。…家を持ちたいと言い出された時から」
たいせつな客を迎えたいからというのでそのように設計したが、まるで、ふたりの主が住むような作りなのだ。
諸葛亮が療養しているのは客間の方で、いずれは妻女を迎えて住まわせるための部屋かとも思っていたが、どうも様子が違う。
牀台も、胡床などの家具がすべて大きくて、まるで長身の男性が住むのが当たり前というような調度が並べてある。
趙雲が、自分がくつろぎたいために家を持ちたいと願ったのではなく、諸葛亮を迎えてくつろがせたいと意図したのではないか。
以前ならば、一笑にふす考えだが。趙雲の想いの一端にふれた今ならば、そうに違いないと自然に思えた。

「そうです」
驚いた様子もなく、当然というふうに趙雲はうなづいた。
「私のとって家はどちらでも良かった。あっても、なくても。ですが、貴方が、……軍師殿が、あまりに疲弊しておられるのを、見ていられなくなった。ひとりで抱えこむばかりの貴方が、いっときでも荷を下ろせる場所になればよい、とおもいました。貴方は気に掛けたことはとことん追う方だから、自ら設計した家ならば必ず訪れてくださるだろう、と」

ひらけた湖の側から風が通り、趙雲の前髪が額の上で揺れていた。
すこし癖のある髪は軍装のときのように金具できつく留めてはおらず、やさしい色の組み紐で結ばれており、それは彼にとても似合っていた。
陽光が音もなく降りそそぐ。
胸にじんわりとした痛みが走るのを、諸葛亮は感じた。


「冬の間に庭を整えると、職人が申しています。ご助言をください、孔明殿」
すこし甘えるように彼がいう。
「邸内は整ってきました。歩けるようになれば、案内しましょう。もっとも、図面を引いた貴方のほうが、この屋敷については詳しいでしょうが」
裏を、畑にしようかと。なにを植えたら良いでしょうか、と彼は首をかしげた。
果樹を植えたら、果実が収穫できるのですよね。と、ごく当たり前のことを不思議そうに聞く。

彼の声、彼の眼差し、彼の表情、彼の仕草――
そういうもの全てが胸にせまった。
武装に用いる額当てをもうずいぶんとしていない額に落ちかかる髪の手触りを、手を伸ばして確かめたい。

「あなたの髪は、……すこし、堅そうに見えるのですが、」
「孔明殿?」
「見た目と、同じなのでしょうか」
庭に植える花は何色がよいですか、と問われたのに、諸葛亮がこう言い出したので趙雲の目が丸くなる。
「私の髪、…」
「あなたは、私のからだを隅々までご存じなのに」
あきらかに軍属である従者が出入りし、家事を行う使用人もいるようだが、諸葛亮の身体に触れるような介助は趙雲が自身でおこなっている。
解毒に効果があるとの医官の提案により、毎日のように薬草を浮かべた湯に浸かっている、その時も。
諸葛亮が恥におもう気持ちに配慮はしてくれるが、それでも肌の隅々から局所までも見られている。
不公平だ。
私はあなたの何も知らない。

「…さわって、みますか」
趙雲の目が甘く細まって、目をそらした諸葛亮はいそいで首を横に振った。




その日を境に、快方に向かう速度が増した。
伝い歩きができるようになり、食事も匙ですくえるものや、小さく切ったものなら自分で食べられるようになった。
趙雲は手持ち無沙汰なようで、寂しいような安堵したような様子で諸葛亮の食事を見守る。
寝台から起き出して居間にいる時間や、湖水を望む縁台で過ごす時間が増えていき、居間で向かい合いともに食事をするようになった。

睡蓮の湖は秋の深まりとともに、静かな美しさを増していた。
涼やかな風が湖面をかすかに揺らし、銀色の繊細な波紋が広がる。周囲の樹々の葉はあざやかな紅葉から朽ち葉色に落ち着き、風に乗ってひらりひらりと湖面に落ちる。
ゆっくりとであれば歩けるようになった諸葛亮は、天候のゆるす限り毎日湖水の周りを散歩した。いつも趙雲が傍にいてくれるのでなんの心配もない。
埋もれていた小径は、草や石がきれいに除かれていて、歩きやすいものに変わっていた。
この小径を整えたのも、いつも諸葛亮が座って水辺を眺める木製の牀几をつくったのも、あの襲撃を受けた日に護衛についていた兵たちなのだという。
諸葛亮の護衛部隊はいまは元の趙雲の隊に戻っており、趙雲の副官の元で軍務に就いている。
非番になるとこの屋敷の近くにやってきて、大工から力仕事を引き受けたり、細々とした雑用をして屋敷を整え、厩舎の馬の世話をしているのだと穏やかに微笑する趙雲から聞かされて、胸が熱く震えた。

あの日の趙雲の激昂した様子。すさまじい怒号も、兵を端から殴りつけた所作の荒々しさも、耳目に残っている。
趙雲は滅多な事で激昂するような男ではない。
我が身を害されたところで彼は怒りはすまい。
害されたのが諸葛亮だったから。あれほど激しく激昂した。

そしておそらく…容赦なく殴り倒すことによって、実は趙雲は護衛兵をかばったのではなかろうか。
やってきたのが張飛であったならば、兵らは殴り殺されていただろう。
もし劉備が怒り狂うような事になれば、諸葛亮を守れなかった護衛は処刑されてしまうということもありえた。
誰に手出しをされる前に、趙雲自身が部下である兵に制裁の手をくだした。そのことを何も隠さずに劉備に報告しているだろう。
そうすることによって忠実な兵を守った。
兵もそれが分かっていて趙雲を慕うのだろう。




ある夜、空が静まり返り、星々が瞬いているはずの暗闇の中で、諸葛亮は座っていた。
かつてなら、空を見上げて宿星の配置を読み解き、自分の未来を占った。
だが今、輝いていた無数の星が視界から消えてしまっていた。
曇り空が続いていると思っていたのだ。だけどしばらくして気付いた。星の煌めきを映さないのは、自らの目の問題なのだと。
「これで良かったのかも…しれませんね」
「孔明殿」
自らの星を探し出すと、果てしなく広い宇宙のなかに、確かに自分という存在があるのだと承認されているような気がしていた。
だがいまは。
星の見えない暗闇。見えない未来。不安と切なさと、なにか安らぎもある。
未来が分からないということは、何にでもなれるということかもしれない。

「私には、宿星というものは分りません。未来は分りません。ですが……生きている限り、そばにおります」
諸葛亮を守るように隣に座す人が力強く手を握る。しっかりと握った手とはうらはらに、夜風のようにやわらかくささやく。その言葉に、存在に、胸が締め付けられた。
星の光が目に見えなくとも、星がなくなったわけではない。
もしも全天の星が消えてなくなったとしても、隣にあるこのぬくもりを信じられる。
「どのような未来でも、構いません。孔明殿、貴方と私は、共に在るのだ」
その言葉に、諸葛亮は目を閉じた。趙雲の言葉を心に刻みつける。
空には太陽もあり月もあり、見えないだけで諸葛亮の星も空にある。そのすべてが見えない闇夜であろうとも、諸葛亮は孤独ではない。



「私は近々、政務に戻ります」
「……」
返答をしなかった趙雲の手を握りしめる。無言のまま肩を、抱かれた。労りとほかの様々な思いがこもった抱擁だった。
趙雲は諸葛亮をたいせつな人だと言った。その者がまたあの泥沼のような場所に戻る。趙雲もまた軍に戻るということでもある。
底知れぬ泥土のような戦いの只中に戻る。

戦乱の世を平定し、漢室の権威を再興して、天下の民を安んじる。
泥土の中で茎を伸ばし、清らかな花を開かせて、やがて実を結ぶ蓮のように。
そのように生きたいと、思う。


「でも、その前に……趙雲殿…」
「孔明殿」
「あなたが、…欲しいとおもうのですが、…その」
「……」
先ほどの緊迫した雰囲気とは違う空気のなかで返答をしなかった趙雲がしばらく黙り込んだので、不安になった諸葛亮はおそるおそる顔を上げ、ひたすらに驚いているといった表情の趙雲と目が合った。
「…あ、いえ、……無理にとは、いいません。あなたが御嫌ならば私は、」
「嫌ではありません」
趙雲が望んでいないと早合点した諸葛亮はいそいで言ったが、強い口調で否定されて硬直する。
「嫌であるわけがありません。私は貴方をお慕いしているのですから。……が、貴方が私を、……私に貴方を、与えてくださる、と?」
「与える……というものでしょうか、いえ、…そういうものでは、なく」
困り果てた諸葛亮はしどろもどろに言いつのった。
「…私が、あなたを欲しいと願うのは、それほど意外でしょうか…」
「意外です。貴方にそのような素振りは、…」
互いに慕わしくかけがえのない存在であることは確かだとしても。趙雲の髪に触ることさえしなかった諸葛亮が、よもやそのようことをとつぜんに。
うろたえた趙雲は赤くなった。
「いや、意外ではない。……すこし、待ってください。抑えていた期間が長すぎて、急には」
「…困らせてしまい、すみません…」
羞恥に襲われた諸葛亮は、手と膝をつかって後ずさり、縁台へと逃避した。
しかしすぐに追ってきた趙雲に掴まってしまう。夜空の下で背後から強く抱擁された。
「私を、欲しいと本心から言っておられるのですね」
「……はい……」
趙雲は諸葛亮を両腕で抱き留めて、万感を込めてささやいた。
「うれしくおもいます」
「……」
趙雲の腕にこめられた力の強さに動転するとともに安堵し、このままずっとこうしていたいと強く願った。
もう線はいらない。二人を分かつ境界線は抱擁ひとつですっと溶けてくずれてなくなっていく。
「今から…?」
耳元で甘くささやかれて、小さく息を飲み、すこし震えた。
「あなたの室を見たことがありませんので。どのようなものか、確かめたく」
かねて考えていた言い訳が、なにか間の抜けたような感じである。
やさしい仕草で向かい合う体勢にされて、顔が近付いた。
口づけをする角度で、でもすこしだけ留まる。諸葛亮が拒まずに、むしろ迎え入れるように顔を上げると、静かに重なった。やわらかくやさしい、そのあたたかい慕わしさに目を閉じて身をまかせる。
抱き上げられて目を開けると、趙雲と目が合った。
見慣れた顔、でも見慣れない表情をしている。
優しく深い目の色、やっと手にした宝物を見るように満ち足りた、でもすこし獰猛さをひそめた微笑に胸が震えた。
その夜、諸葛亮ははじめて趙雲の室に入り、そして夜明けをともにむかえた。





「夜明けだ、軍師。……孔明」
いとしい、私のたいせつなひと。
夜明けの空に星は見えない。未来は見えない。
運命が見えなくても、前を向く決意をした。傍にいてくれる人がいるから。

遠くにわずかずつ明るくなる空が、新しい始まりを告げていた。

 

 






短編・冬支度 ≫

BGMは「星の消えた夜に」
この曲を聞いていて唐突に趙孔に家を持たせようと思いました。


(2024/10/14)

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