蒼天1 趙孔


澄み切った青空がどこまでも広がっている。
雲ひとつない快晴――――


劉備が荊州の北部、新野の城を間借りしてから、7年が過ぎていた。
新野は小城で、兵を訓練する時は城外の荒野で行う。一度出ると2、3日で済むことはほとんどなく、長いと1ヶ月に及ぶこともある。

今回の調練が7日たらずという中途半端な日数で帰城して来たのは、途中で食料がなくなったためだという。そのあたり、どうも行き当たりばったりのようだ。

城内の井戸には将も兵卒もむらがり、それぞれに汗を流している。ざわざわとにぎやかな雰囲気で、血気盛んな将兵のこと、桶を奪い合ってちょっとした喧嘩が起きたりもしていた。

すこし遅れてきた長身の将は、群れていた下級の兵士に場を譲られ、頭から水を浴びた。

「聞きましたか。劉備様がとうとう、噂に高い隆中の龍を口説き落としたらしい、と」

長身で黒髪の武将に布を渡しながら、まだ年若い将校が唐突に話題にした内容に、ぎくりと胸を押さえる。
黒髪の武将が何か言う前に、顔半分に虎髭を生やした将がケッと喉を鳴らし、大音声で罵声を吐いた。

「龍ってもな、臥龍だか伏龍だかだ!まだ飛んでもねえヒヨッコってぇことだぜ!」
「どんな方なんですか、張飛様」
布を渡したほうの青年が身を乗り出す。
「張飛様は劉備様に付き合って、隆中に行ったと聞きました」
「どんなもこんなもあるかよ、ありゃあなぁ」
張飛と呼ばれた武将は、髭面をくそおもしろくもなさそうに、くわっとゆがめた。

「ひょろひょろして、女みてえな面した野郎だったぜ。あれが龍だぁってぇ?冗談じゃねえ、まだ鳥のヒナだってぇ言う方が信憑性あるぜ」
「ああ・・・時勢を識るは俊傑にあり、すなわち「臥龍」と「鳳雛」、という話ですね」

青年は目を輝かせたが、兵たちから野次が飛んだ。
「そんな小難しいこと、おれらにゃ分かんないですよう、関平様」
「そうそう、分かるように言ってください」

関平と呼ばれた青年は、頭をかいた。
「え、あ、・・・拙者もくわしくは知らないのだが・・・なんでも劉備様が荊州に落ち着いたころ、人物鑑定家として有名な司馬徽先生を訪ねた時、「まだ世に出ていない天下の俊才」として2人の人物を、「臥龍」と「鳳雛」にたとえて示したという話だ・・・「臥龍」「鳳雛」というのは、ええとその・・・・すなわち将来は龍とも鳳凰ともなりうる優れた才能の持ち主が、荊州に隠れていると暗示されたのだと、いうことなのだが・・・」

関平という青年は、あまり弁が立つほうではないのだろう。
つかえつかえだが、誠実さのあらわれた口調だった。

意味深なたとえに劉備は食い付いたが、司馬徽はついにその人物らの名を明かさなかった。
劉備は荊州牧の劉表から荊州北部の新野城を借り、兵を養いながら「臥龍」「鳳雛」を探し続けた。
そしてついに、「臥龍」を突き止めたのだ・・・・・・と、朴訥に語り終えて関平は、張飛を見る。

劉備とともに「臥龍」に目通りした張飛は、まったくその人物を気に入らなかったようで、「龍」どころか「鳥のヒナ」だと毒づいた。

「ぴーちくぴーちく、わけのわからん理想論をばっかぶちやがって、今がどんな乱世が分かってんのか、あいつは。太平の世じゃねえんだぞ。お綺麗なことばっか言ってんじゃねえや。ちぃっ、けったくそ悪ぃ・・・おい関平!あのヒヨッコのことなんざ金輪際俺の耳に入れやがんじゃねえぞっ」

大音声で吐き捨て、足音も荒く張飛が立ち去る。
びりびりと壁が震えるほどの声量に耳を押さえた関平が、のろのろと手を下ろし、先ほど布を渡した長身の将に向かって、困ったように眉尻を下げた。

「耳に入れるとな申されても・・・・もう、この新野の城にいらっしゃっていると聞いておりますが・・・」
「ああ、私もそう聞いている」

長身の将が、はじめて口を開いた。若々しく、そして深みのある声だった。
関平という将校が、心配げに問うた。

「もう、お目にかかりましたか、趙雲殿は」

問われた将が首を振る。艶のある黒髪がその仕草によって左右に揺れた。

「隆中の臥龍殿に関しては、殿は私にも内緒だったのだ。供は関羽殿と張飛殿で、私はお連れにならなかった。まだお目にかかっていない」

「知りませんか、趙雲様。俺もまだ見てねえが、新野の残ってた兵の間じゃ、すごい噂になってますぜ」
言い出したのは、中年の兵卒だった。水浴びをした後のざんばら髪を拭きもせずに放りっぱなしで、水をしたたらせている。めくり上げた袖や、襟をはだけて着崩した様子が、いかにも歴戦をくぐって戦慣れした様子の兵だった。

関平が振り向く。
「噂?」
「それが、ですねえ・・・・・・」
「おう、なんだなんだ」
群れて休息を取っていた下級兵らも身を乗り出して聞き耳を立てた。

「その臥龍どのを―――劉備様は、毎夜毎晩、寝所に呼んでご寵愛っていうんですわ」

「は、な・・・・寝所!?」

純粋な驚きの声を上げたのは関平だった。

「ま、まさか――――隆中の臥龍殿は、軍師、なのだろう!?」

へっ、と中年の兵は意味深な笑みを唇に乗せた。

その意味ありげな表情に、驚いて息を飲んでいた兵らが首をひねった。

「へぇ、劉備様がねえ」
「男を相手になさるとはなぁ・・・戦場じゃべつに珍しくもないが、殿にその手の話はなかったがなあ」
「奥方様がご懐妊中だろ、夜が寂しくて・・・ってことじゃないのか」
「いや、第二夫人様もいらっしゃるし、それはないよなあ・・・張飛様が女みたいな顔の男って、おっしゃってただろ、臥龍の名と顔に迷われなすったんじゃないか」

解せないという兵らの表情が段々と、下世話な好奇心と侮蔑に変わっていく。

「へぇ、殿もお人が悪い。じゃあ、三顧だとか何とか、熱心にお通いになってたのは、そっちのお好みに合ったからってわけか」
「その臥龍どの、どうするんだ。そのまま寝所にお隠しになるってのか」
「殿を落とす美形なら、顔を拝んでみたいがな」
「へっ、違いねえ」


「ば、馬鹿なことを言うなっ」
関平という若い将校は、兵らの言いざまに真っ赤になっていた。
「し、寝所に呼んだとて、い、いかがわしいばかりではないだろ!酒を飲んだとき、そこらで皆で雑魚寝して夜が明けたなんてことは良くあるし、・・・・それに、殿の同衾癖は有名だろっ・・・拙者だって、殿と夜を徹して語り合うことだって、ある」

兵たちはばつが悪そうに黙り込んだが、最初にこの話を持ち出した中年兵だけ、馬鹿にしたように唇をゆがめた。

「そこらのむさっくるしい男どもならそれで済むんでしょうがね・・・城内の噂では、臥龍殿は、・・・・どうも、駄目らしい。あまりにも普通ではないらしいですぜ、容姿も、態度もね」

兵はそこで真顔になった。

「趙将軍、どう思います。俺ぁもう十年以上劉備様に付き従って戦ってきたんだ。俺らは殿に惚れこんでるんでさぁ」

下世話な話に興じていた兵卒らもまた真顔になって、そうだそうだと頷いている。

「劉備様が選んだ軍師なら、従いますぜ。だが、半端な野郎に俺たちの命は預けらんねえ」

将軍と呼ばれた男は、遠目にみてもひどく整った容貌で兵を直視した。
その眼光に熟練の中年兵はひるまなかったが、周りの雑兵らは息をのんだ。喧噪の止んだ輪の中心で、将がゆっくりと口を開いた。

「私も同じだ。劉備様が選んだ道に付き従う。劉備様が選んだ軍師になら、この命を預けよう。―――私は噂など信じない。自分の目で確かめる。劉備様の真意も、臥龍殿の器も」

兵から緊張が抜け、ふぅと息をつく。中年兵だけがまだ納得がいかないような面持ちで顔をしかめた。

「そりゃ、・・・・・俺だってそうですぜ。だが趙雲様・・・寝所から出してないってのはどうやら本当ですぜ。古来、女や寵臣に迷った王は多い。閨房での寵愛を政治軍事に持ち込む君主は後を絶ちませんでしょう。劉備様を信じたいが、―――臥龍とやらに惑った劉備様なんて見たくないんでさ」

まだ顔を赤くした関平が言い募る。
「だ、だから、そんな心配をするのは早計だ!」







それ以上を聞かずに後ろ手に扉を閉めた。
手が震えている。震える手を顔を前にあげると、血の気が引いて幽鬼のように蒼白だった。
節くれだった手指だった。農民の手だ。隆中では本気で農に取り組んでいたのだから。文官でも士大夫でもなく、まして軍師なんてものでは決してない、ただの農民の手だった。
目を閉じる。

燃えている

真っ赤に燃える炎、焼き尽くされる街、人――――川を堰き止めるほどの死者。
女も子供も一切の容赦ない無差別の殺戮、蹂躙―――・・・・

焼かれ、奪われた
兵に、将に、武将に。蒼紫の武装束の奸雄に。

手で目を覆い、扉を背に、ずるずると座り込む。
ずっと、そうしていた。日が暮れ果てるまで、動けなかった。


 






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(2014/7/12)

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