蒼天2 趙孔


「諸葛亮殿」

劉備が自分の居室に戻ると、諸葛亮は威容を整えて椅子に座し、部屋に灯りをともして書に目を通していた。

「孔明とお呼び捨てください、と申し上げました。劉備様」

ふむとつぶやいてから劉備は、いささか照れくさそうに頭をかいた。

「孔明・・・・うむ、美しい字だ、まるで清らかな月のような」
「・・・・」
「やっと身体があいたのだ。夕餉に付き合ってくださらぬか」
「主公―――もう私は殿の臣下、敬語など不要です」
「そうだったな。気をつけよう」

いいながらも劉備は、まるで高貴なものに対するように手を差し出し、うやうやしげに手を取る。

隣の居室には四角い卓が置かれ、すでに幾皿かの菜が置かれてた。劉備はまず孔明を席につかせ、向かいに自分も座をしめる。
羹や焼き物が運ばれてきて、夕餉がはじまった。

「今日、調練に出していた将兵が戻ってきてな。これで我が軍の主力を揃って諸葛殿にお見せでき―――いや、孔明に見せられる」

「兵の数を今一度、お教えいただけますか」

「うむ――まず関羽の兵が4千。これは歩兵が中心で、騎兵は伝令用に2百騎ほど備えてあるだけだ。これを主力として、両翼に張飛の騎兵が千、趙雲の騎兵が8百。これを基本として、場合によって流動させておる」

「どのようにでしょう?」

「うん」
長江の支流で獲れた川魚を焼いたものに箸をつけながら、劉備がうなづく。

「固まっているのが、張飛の軍だ。そこへ関羽の兵や趙雲の兵を混ぜ込むことはできるが、逆は難しい。張飛の兵は、張飛が手放さないからな。もっとも私が借りることはある」

「張飛殿、趙雲殿が歩兵を使うことは、できるのですか。あるいは関羽殿が騎馬兵を動かすということは」

「できる。誰が用兵しても、合図は同じなのだ。兵は鉦と太鼓の合図で動くのだから。だが動かす者の癖のようなものがあって、訓練は必要なのだ」

兵のこと、将のこと、荊州の民政のことと、話はつきない。
劉備はおうせいな食欲で夕餉を掻き込んだが、あとは酒も茶もやらずに熱心に語り、また諸葛亮の意見に耳を傾けた。
夕餉はすみやかに済んだ。ここ数日の習慣では、劉備の居室に場を移してなお語り合うという流れだ。

劉備の居室には、地図がある。これは孔明が献上したものだった。劉備も地図は持っていたが、孔明の持ち込んだもののほうが地形が細かい。

「聞かせてくれ、諸葛ど・・・いや、孔明」

夕餉の卓から手を取られ、簡素な居室に導かれそうになって、孔明はためらう。
劉備の居室には、扉ひとつ向こうに寝所がある。孔明が来てから劉備は一度も夫人の所に行っていない。

『だが趙雲様・・・寝所から出してないってのはどうやら本当ですぜ。古来、女や寵臣に迷った王は多い。閨房での寵愛を政治軍事に持ち込む君主は後を絶ちませんでしょう。劉備様を信じたいが、―――臥龍とやらに惑った劉備様なんて見たくないんでさ』

「主公」

「諸葛ど・・・・いや孔明の話は何度聞いても心が昂ぶる。これまで敵がどう動いたから自分はこう動く、ということしかしてこなかったが、これからは違うのだと思える」

孔明は一度目を伏せたが、地図を指した。

「敵の動きに対処するということは勿論この先も必要です。が、もっとも大切なのは、なにを目指すかということです。行き着くべき先が決まれば、おのずから行くべき道が決まりましょう。毎日話していることですが、主公が目指すのは益州――そして荊州です。荊州を先に取れるほうが望ましいですが、もっとも重要なのが益州の領有です」

そのとき廊下に通じる扉のほうで音がしたことに、孔明は気づかず、劉備も振り向きはしなかった。

「荊州、益州を押さえて揚州の孫家と同盟すれば、曹操が押さえる河北と充分に対抗できます。その先、天下に変事がございます際は、荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、益州の軍勢を率いて秦川に出撃―――・・・・・・・曹操を打倒し漢王朝を再興することも可能になりましょう」

「まずは、天下三分―――であるな」

劉備が腹から吐き出すように長く息を吐いた。
目が輝いている。ぎらぎらとした野望ではない、かといって理想だけを追うのではない。穏やかでいながら熱があり、野心がありながら誇りと決意に満ちている。劉備のこういう様子には惹かれるものがあった。
孔明はうやうやしく頭を下げる。

「その通りでございます」

「しかし、荊州の領主は劉表殿、益州は劉璋殿・・・いずれも私と同姓なのだ。同姓から国を奪うというのは、徳に反した行為ではないか」

「劉表殿、劉璋殿では益州、荊州を守りきれないことは分かりきっております。守りきれなければ、この国のすべては曹操のものとなり、間違いなく、漢室は崩壊いたしましょう」

「うむ・・・そうだな、そこは、分かっている」

深く頷いた劉備はしかしなお迷うようにあごの下に握った拳を押し当てた。

「劉表殿、劉璋殿から荊州、益州を獲るとお考えになるのはやめることです。荊州、益州は劉表殿、劉璋殿の持ち物というわけではありません。お二人は漢王朝から土地を預かっているに過ぎないのです。漢室を脅かすものから領土を守れないならば、守れるものが代わるのが当たり前。主公は漢室の末裔―――劉表殿や、劉璋殿には主筋、またはお身内にあたります。天意を得て、劉表殿、劉璋殿の代わりとなり漢室を守るのだと、お考え下さい」

ううむと劉備がうなった。

「いや、霧が晴れていくようだ。ずっと悩みに悩んでいたことに、はっきりと道筋がついた」

「さしあたって、先に荊州でしょうね。曹操の北伐が完了しつつあると報が入っております」

「うむ―――来るな、南に」

「来ます。そして北伐を終えたからには、途方もない兵力を投入するでしょう」

「うむ・・・」

劉備がうなった。

「間違いない。北伐には10万の兵を入れているという。北の領土、税、人、食料が手に入ったならば、南には少なくとも倍――20万でくるだろう。もし北の袁家が滅びれば、あと曹操に抵抗できるものといえば、荊州と益州、揚州の孫権、涼州の馬超くらいなものだな」

「主公が抜けておられます。荊州、益州、揚州、涼州―――この中で曹操に真っ向から戦うと宣誓している領主は今のところおりません。はっきりと曹操と敵対しているのは、我が主君、劉備様だけです」

「領土を持たぬ流浪の軍であるがな」

劉備が笑った。自嘲ではなく、事実をありのままに述べることによる苦笑だった。
孔明は劉備をまっすぐに見る。

「主公の先祖、漢の高祖劉邦は、なんの地位ももたずに生まれ、また楚漢の戦の間、一つの策略を考え出したことも、一回の勝利もしたことがありませんでした。でありながら、貴族出身で稀代の軍略家であった項羽を破り、漢王朝を興しました。・・・生まれや才能ではない、最後は器なのだと思います。王の器を持つもののもとに人が集まり、国が興る―――私は主公の中に、王の器を見ました。だから、我が君にお仕えすると決めたのです」

「う・・・む」

劉備が頬を紅潮させる。

「あぁ今夜も眠れそうもないな。夜を徹して語り合いたいところだが、さすがにこう連日ではな・・・・私が毎晩寝所に連れ込むので、兵たちのあいだで噂になっておるだろうし」

「・・・・・・・・・・」

「城内にそなたの室を用意した。今夜からそこで休むといい」

「は・・・い。お気遣いいただきまして、ありがたく・・・」

孔明は立ち上がり、劉備もまた席を立った。

「・・・・・大丈夫か」

劉備が伸ばした指先が、頬に触れた。びくりとなりそうなのを意思で押し留め、目を伏せる。

「なにがでございましょう」

「いや―――・・・・」

ずいぶん長いこと孔明の顔を見ていた劉備は、ついと手を降ろし、振り向いた。

「趙雲」

孔明は心の臓が跳ねるほど驚いた。音を立てて血の毛が引いていくのが分かる。

「殿」

重々しくはないが軽くもない具足の音を鳴らして現れたのは、武人だった。すぐに目をそらしてしまったが、ちらと見た限りでも力のこもった眼光をして、表情にも立ち姿にも隙がない。長身の肉体が硬く鍛え上げられているのが軍装の上からでも見て取れた。

劉備はその武人がこの部屋に存在するのはしごく当然というように振舞っているが、孔明は彼がいつから同じ部屋にいたのかまるで分からなかった。

「孔明、これが何度も話した趙雲だ。我が軍では騎兵を率いておるが、歩兵を使っての用兵も上手い。武技も凄いぞ。騎乗での槍は、中華広しといえどほぼ敵うものはおらぬと、私は思っている」

「・・・・・・」

「孔明?」

「いえ・・あ、――趙将軍はいつから部屋にいらしたのでしょうか。気付きませんでしたが・・・」

「え、ああ。ええと、いつだったかな、劉表殿、劉璋殿のことを話しているとき、もう居たような気がするが」

「熱心に話しておられたので、挨拶はしませんでした。無礼と思われたのなら、ご容赦ください、諸葛殿・・・・・いえ、軍師殿」

孔明は赤く染まる眼前の炎を目を閉じることで消し、袖を重ね合わせた。

「諸葛亮、字を孔明と申します。3日前より、劉備様の臣下とさせていただきました。以後御見知りおきください」

「趙子龍。常山真定の産です」

武人も礼を取った。若々しいが軽いところの無いきりりとした軍礼だった。

「これより、趙雲が孔明の主騎につく。趙雲、やっと得た我が軍の軍師だ、よろしく頼むぞ」

「主騎?」

「護衛武官のことだよ。すまぬが、私には敵がいる。というよりは、味方だといえるものがあまりにも少ないのだ。私が南陽の臥龍を得たということは、すぐにも知れ渡ろう。私の戦や動向が、今までと何か違っているということも。その中心に居るのがそなただということは、分かるものにはすぐに分かる。―――狙われる、と思うのだ」

それは孔明にも良く分かった。孔明の前に劉備の軍師となった徐庶は、劉備のもとで一手柄を上げただけで曹操に目をつけられ、実母を押さえられることであっさりと曹操のもとに下らざるをえなくなった。
なにかひとつでも劉備のもとで目立つことをすれば、同じようなことを仕掛けてくるだろう。

「私の寝所に留め置いたのは、趙雲が帰ってくるのを待っていたからなのだ。無論、私はずっとそなたと過ごしたいが、外も中もなかなか煩く、そうもいかなくてな」

胸が熱くなるようだった。
守られていたのだ。
しかしこれからはそうもいくまい。
閨での寵愛を受けていると誤解を受ければ、兵たちの士気と忠誠を欠く。軍師として役に立たぬどころか、劉備に対する将兵らの信頼まで揺らぎかねない。

劉備が孔明の肩を抱き、武人のほうに押し出すようにした。

「趙雲、重ねて言うが、しかと頼む。諸葛孔明は我が頭脳、我が軍の行く末を握る鍵だ――――守りきってくれ」

「承知いたしました」

力強くも深みのある声でこたえ、武人は劉備に対して拱手した。


 






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(2017/12/4)

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