蒼天4 趙孔


明け方、趙雲は目を開けた。
あたりはまだ薄暗いが、暁の澄んだ光がやわらかく闇を払いつつあった。

一動作で身を起こして立ち上がり、ほんのかすかな音を立て、隣につづく扉を押し開けた。

寝所にはその粗末さに不似合いな端麗なものが横たわっていた。
彼の眠りが深いことは、ここ数日見ていれば分かった。ちょっとやそっとの事では目覚めない。
代わりに、夜が遅い。
そして――――毎夜のように、うなされている。


彼が新野に来てから7日。趙雲が警護についてから、4日が過ぎていた。その間、何から何まで落ち着かない。

時勢を識るは俊傑にあり、すなわち「臥龍」と「鳳雛」。

そんな謎めいた予言にしたがって主君が探し続け、三顧の果てについに射止めた俊才・・・・諸葛孔明という賢人は、なにからなにまでが異質だった。

背に流れる濡羽色の髪、玉を磨いたような膚、目を疑うほど秀逸に整った眉目、そして白刃のように冷たい眼差し―――というのに、ひとたび向かい合えば、黒曜石のような瞳はひどくあやうい。
どこか遠慮しているような、怯えてさえいるように揺らぎ、まともに視線を合わせた者など劉備以外には居ないのではないか。

劉備の寵を独占し、彼が来た当初、劉備は彼がいなくては昼も夜もない様子で、居室にずっと閉じ篭めて誰の目にも触れさせなかったという。
その様子に張飛は激怒し、兵たちは勝手な噂話に花を咲かせ、関羽は静やかな怒りを湛えている。



趙雲は彼の寝顔を見下ろした。
深夜にも同じ事をした。毎晩、同じ事を。
最初の夜からそうだった。深夜、彼がうなされ始めた時、趙雲はまず異変がないこと――曲者などの気配がないことを確かめた。
気配はなく、何らかの悪夢を見ているのだけなのだとすぐに知れた。

夢にうなされていたとしても、身に危険はない。
『居ないものとお思い下さい』
そういったのは趙雲のほうだ。居ないはずのものが、付き合いの浅い護衛が、深夜勝手に寝所に入り込んでいるなど、ふつうの人間なら嫌悪するだろう。

だが――――最初の夜からもう、趙雲は駄目だった。どうしてもそのままにしておけなかった。
趙雲はその最初の夜、様子を見るだけだと自分に言い聞かせて、隣室に続く扉を開けたのだった。

自分に言い聞かせるということは即ちもう自分に対して後ろめたい言い訳であり、普段の趙雲ならば、そんなくだらない言い訳を自分にも他者にもすることは無い。
だが彼は異質であるとともに、特別だった。

はたして彼はひどくうなされていた。
しかし、ただうなされているだけでもあった。
戦乱のただなかで、趙雲はもっと悲惨な状況のものを目にしたことが多くある。凄惨な戦場で、略奪の現場で、飢えのさなかで。自失するもの、泣き喚くもの、狂乱するものを多く見てきた。健常な兵でも、悪夢にうなされることは珍しくない。


だけど寝所の脇に立ち、苦しんでいるその人を見下ろした趙雲は、息が出来ないような状態になった。
考えるより前に手を伸ばした。
ぎこちなくふれた頬はあまり温度がなかった。呼吸が薄い。
驚いた趙雲は息を殺して指を伸ばし、首の付け根の脈拍をさがした。首筋にそって手指をすべらせても目覚めない。
首には脈拍があった。当たり前のそのことに自分でも解せないほどに安堵した趙雲は、しばらくのあいだ呆然とそこに手を置いていた。

しかし脈拍から手を離し、苦しげにうなされる肩に触れてなだめようとした趙雲を拒むように、うわごとをつぶやきながら寝返りを打った身体は壁際のほうへと遠ざかった。


触れるはずだった手を趙雲はぐっと握り締める。
これ以上は駄目だ――。

彼はまだ悪夢の中にいるようだったが、趙雲は静かに寝室を出た。精悍な眉をひどくひそめながら。


同じような夜が何日も続いた。
うなされ、うわごとをつぶやく彼をなだめようと手を伸ばしては自重して引っ込め、その身体に触れたことは無い。






夜明け前のまだ暗い中、趙雲はきびすを返し、音をたてずに寝所から出た。

身支度を整えて、居室が見える庭へ出る。
声は出さず、裂帛の気合とともに槍を振るう。びゅうと風を薙いだ刃が、朝の薄光にきらめいた。
いつもは槍をふるうと思考が消え、無心になっていく。
しかし今朝は、刃が空を裂くほどに深い思考に入っていった。



天下三分―――――

劉備の居室で、はじめてその言葉を聞いた。
冷たさとやわらかさという両極端を伴う、たぐい稀な美声だった。

その声はよどみなく語っていた。劉備の行くべき道筋を。この国のありようを。時代のはるか先に行き着くべき未来を。
劉備は、息をするのも忘れるようにして聞いていた。

腹の底から息を吐き、「霧が晴れていくようだ」と劉備がうなった。
趙雲にとっても刮目する思いだった。
関羽も張飛も趙雲も、自分たちには何かが足りないといつも感じていた。それは孫乾や伊籍といった、すぐれた文官を陣営に加えても変わらなかった。
豪傑は揃っている。兵や武器を掻き集めることはできる。だが豪傑や将兵を用いて何をなすべきなのか、誰も分かっていなかった。

曹操が2万で兵で攻めてきたらどう対抗するのかという策を述べることは、関羽にも張飛にも趙雲にもできる。
しかし、曹操の兵が5万だったらもう無理だ。いや5万ならぎりぎり戦うかも知れないが、10万だったら逃げるしかない。それが限界だ。

彼は違う。
戦略と戦術との違いを眼前に突きつけられた思いだった。戦闘に勝つための戦術ではなく、行くべき道を決めるのが戦略なのだと、はじめて知った。
そして戦略を練ることのできる人間を見い出すことは、砂の中にある一粒の金を見つけるよりも難しいことも。

曹操はおそらく戦略家だ。しかし劉備は違う。戦略を持つかどうかが現在、漢室を押さえて中華北部におそるべき勢力として君臨している曹操と、領地を持たず流浪している劉備との、差なのだ。
だとしたら、劉備には戦略を練る人間がそばに必要なのだ。

趙雲は曹操と面識が無い。しかし関羽によれば、器という点で劉備は劣っておらず、勝るところさえあるという。
事実、趙雲とて劉備は唯一の主君で、いかに官位や邦爵、金品を積まれたとて曹操に仕える気はない。
それは、母親を人質に取られ泣く泣く曹操に下った徐庶も、同じだ。徐庶は曹操のもとでたいした役職についていない。自ら望み、つまらぬ職務の下官に甘んじているという。

劉備の器が、行くべき道を明らかに示す戦略家を得れば、それは雲を得た龍のごとく、中華にその存在を轟かせるのではないか。

それを考えた時、趙雲の胸の底にある、熱い塊が大きくなった。
趙雲は常に胸に炎を抱いている。14、5で出た初陣の時にその炎は生まれ、劉備に出会い大きくなった。
そしてあの臥龍に出会い、炎は胸を焼かんばかりに燃え盛っている。平常のそぶりを保つのに苦労するほどだ。


才だけでも目をみはるものなのに、この臥龍は容姿までおよそ非凡である。
美しいのだ。

やっかいなことに彼の容貌、そして容姿は、男の劣情を誘う。
劉備の寵愛を受けている、劉備の手がついている、などという憶測があっという間に広がったのは、彼の容姿のせいだ。
劉備が誰かと同衾―――寝所を共にすることなど、珍しくもない。
義兄弟たちや先の軍師徐庶であれば、毎日のように同衾しても噂にはならなかったに違いない。

だから趙雲は、夜の警護にも付いている。
敵に囲まれているような陣中ではあるまいし、自軍の城中であるならば通常なら夜までは護衛には付かず、衛兵に任せる。

だが放っておくと、自軍の将兵の誰かが、夜に忍んでくる気がした。
今のところその気配はない。劉備の居室に近く、それ以上進むと劉備の妻女たちの住まう場所ということが功を奏しているのだろう。


最初の目論見では、趙雲はもうすこし距離を置くはずだった。
趙雲は直属の配下に8百の騎兵を持っていたし、関羽のかかえる主力歩兵の調練は、関羽、張飛、趙雲が交代で行っている。
3将ともが手足のように兵を用いられるよう慣れておかねば、何かあったときの対処が遅れる。
いつまでも付きっきりというわけにいかない。
―――付きっきりというわけにいかない、のだが・・・・・

汗がしたたるまで鍛錬し、趙雲は槍を下ろした。
上衣を脱ぎ捨てて井戸に近寄ると、水の冷たさをかんがみることなく浴びた。

当初、腕が立つ兵を10名ほど選りすぐって彼に付ける気でいた。
だが今はそうすることにためらいを感じている。

何故だか分からないが、まだ時期が早いと勘がささやいていた。


汗を洗い流してしたたる水を布で拭い、半身を肌蹴たまま居室に戻る。自分のではなく、彼の居室だ。
濡れた下衣を手早くおとし、かわりに武袍と武具を身につけていく。
彼はなぜか、武具をまとっているとより態度を硬化させ、ちらとも趙雲を見ない。
最近そのことに気付いたが、だからといって武具を付けないという選択肢はなかった。
なんとしても守らなければならないのだ。

城内ゆえの簡易な帷子を隙無く身につけ、眠れる龍を目覚めさせるべく、趙雲は隣室への扉に手をかけた。


 






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(2017/12/4)

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