趙子龍が不在である。
軍務で南郡に出ており、もう10日ほど新野を留守にしていた。





「軍師様・・・?」
侍従が探しにきた早朝、諸葛亮はもう執務室にいた。
「朝餉を」と言いかけるのに、にこりと笑いかける。

「ありがとう。でも今朝は茶だけで結構です」

まっさらの布帛をひらき、昨夜思考の中で完成させておいた文を書き上げてから、茶をいれ、書簡に目を通しながら一服した。
竹書を三巻使って軍令書を書き上げ、諸侯から受け取った文の返信をしたため、百巻ほどある戸籍の木簡につぎつぎと目を通しながら、二杯目の茶を飲んだ。
午前中はそうして机に向かって過ごし、昼前になって、劉備を訪ねてきたという豪族と挨拶を交わし、執務室に戻ろうとした時だった。

趙子龍が立っていた。執務室の真ん前に。

仁王立ちというやつだ。
険しい顔をして、腕を組んでいる。

丸い鉄の薄板に紐を通して編んだ魚鱗甲と呼ばれる鎧を着け、その上に淡い碧の武袍を纏っている。
城内では物々しすぎる完全に武装した姿をしげしげと見つめ、諸葛亮は2度ほどまたたき、眩しげに眼を細めて微笑んだ。

「・・・・・お帰りなさい。帰還は明日のご予定ではなかったですか」

「釈明があれば、聞きましょう」

諸葛亮は微笑しているというに、口元をゆるめもしない仏頂面で、なんだか偉そうな上から目線で趙子龍がのたまった。

「私、なにかしましたっけ?」
諸葛亮はおっとりと首をかしげた。
「あなたの留守中、非常に勤勉に執務に励んでいた気がいたしますが」

目を据わらせたかと思うと、趙雲は腕組みを解き、諸葛亮に近づいた。
ぐいと腕を持たれ彼の躯のほうに引かれたかと思うと、腰のあたりに手を置かれて抱き寄せられた。

・・・・・・・・・・。

瞠目したが、ぬくもりにひたる暇もなく、さっさと放される。
抱擁は解かれたが、顔同士の距離は近かった。

「やはり、食っていない」

「は?」

「劉軍の下世話な情報網を侮られるなよ。南郡は要地ゆえ、毎日新野の本部隊から伝令がやってきます。昨日のあなたの食ったものは、『軍師様は朝餉を召し上がらず茶だけ』『昼はにぎりめし一個』『夕餉は茶碗半分のごはんと鶏のささ身を摘んだだけ』―――おとといは朝と昼は同じ、夕餉は『粥と鶏の焼き物を突っついただけ』――その前は、蒸し鶏と野菜でしかも飯は抜きだった」

「・・・・・・なんといいますか・・・・・鶏好きなのがばれてますね・・・・」

諸葛亮はさまざまな意味で『劉軍の下世話な情報網』に本気で感心したのだが、無視され、斬りつけるような声を詰問された。

「なぜ、食わないのです」

「と、申されましても。私は元からあまり量を食べませんし、あまり寝ない性質なものですから」

「寝ても、いない、と」

ひやりとしたものを感じて諸葛亮は口を閉じ、あいまいな笑みを浮かべた。

「どうしてくれましょうか――」

どうやら趙子龍は本気で怒っているようである。
なんでだ。無茶な軍令を出しても顔色一つ変えずに飄々と了承してしまう男なのに。

「執務はあなたの戦ということは、承知しています。執務で多少の無茶をするのは、目を瞑りましょう。しかし戦場であればなおのこと、食わずに戦いができると思うのか」

諸葛亮は一応、黙り込んだ。
とくに身体の不調は感じていない・・・なんて言おうものなら、火に油を注ぐ気がした ので。
男前は得だなぁと、思う。
怒っているとなおのこと、精悍さが引き立つのだ。

「間もなく曹軍が南下するというのに。戦になると、食えるものも食えなくなることもあるのだぞ。平時に、身体を備えておかないと、いざという時、」

趙雲が不自然に言葉を切った。
反省の色もなくほのぼのと微笑している諸葛亮を眺めて、むす、と口を引き結び、眼差しをよけいきつくする。
手が伸ばされ、頬に触れた。いかにも武人らしい堅い指先を、感じる。

「ぎゃ・・いた・・・っ」

むぎゅ、と頬を引っ張られて諸葛亮はさすがに悲鳴を上げた。

「毎日、貴公のことを人伝に聞かされる身にも、なれ。今にも倒れるのではないか・・・・・と。腹が煮えるようだった」

「それは・・・・・」
ごめんなさい、という言葉がするりと出てきた。

ふん、と鼻を鳴らした趙雲が、いつもの彼の表情に戻って、ふいと手を離した。
ようやく解放され、諸葛亮は容赦ない制裁を受けた頬をさすった。

「・・・・・なんだか、落ち込みますね。あなたは、私のことを毎日聞いていたのですって?・・・・私にあなたのことを伝えてくれる者など、おりませんでした」

「人望です。それと日頃の行い」












しれりと言い放った趙雲は諸葛亮から視線をはずし、何かを探すようにあたりを見回した。

「・・・・どこに行った?」

「なにがですか」

「いえ・・・」

ふと気付いたように回廊の曲りに消えた彼は、戻った時には、二人だった。

「な、にも見てません、聞いてませんから・・・っ!」

趙雲が連れていたのは、いささか意味不明なことを口にする、兵装をした少年だった。少年というには少し育ち過ぎているのだが、青年と呼ぶにはまだ足りないという年恰好だ。
額が広く、賢そうな目をしている。目もとは涼やかだが、頬を朱に染めたさまが幼く、愛嬌があった。

諸葛亮はその少年兵の素性には疑問には思ったが、ひとまず執務室へと二人を導きいれた。
室に入ったところで少年が、精一杯に大人びたふりをした拱手をした。

「・・・・・ち、陳震と申します、軍師様にはお目にかかり、光栄にぞ、存じますっ」

丁重な挨拶にすこし首を傾けて微笑し、諸葛亮は端雅な礼を取った。

「こちらこそ、お目にかかれて光栄です、陳震どの。・・・・かわいいですね。すこし、おまちください。とっておきの菓子を出しましょう」

「え・・・・・・っその・・・・」

趙雲は呆れて息を吐いた。
正確な年は知らないが、陳震は15、16歳だろう。すでに字を持ち、初陣も済ませている。男子としてもっとも子ども扱いをされたくない、微妙な年頃だ。
それを軍師ときたら、・・・・・礼を取ったところまでは良かったのだが、あっさりとかわいい子ども扱いしてしまった。
案の定、陳震は真っ赤になっている。

「菓子・・・・って、おれ、・・・子どもじゃありません」
「え・・・・・」

今度は軍師が絶句する。

「いつから、菓子が子ども限定のものになったのです。27歳で菓子好きの私の立場はどうなるのですか」

「菓子など、今も昔も子どものものでしょう」
趙雲が腕を組み、やや意地悪く口をはさむと、軍略に口を挟んだ時などはおっとりと受け入れる軍師に、別人のように激しく睨まれた。

「その者は武技の腕は悪くないのだが、情が濃やかで理が先に立ち、武官で立身するにはすこし難がある。本人も行政のほうに興味があるらしいので、軍師に預けます」

諸葛亮が返事もしないうちに、用は済んだとばかりに趙雲は腕組みを解いた。

「陳震、しばらく軍師にくっついていろ」

「は、はい」

幼いながらきちりとした軍礼をした陳震に対して、趙雲がこともなげに言い放つ。

「飯は、軍師と食え。食うのは、軍師殿と同じものを。同じ量だけにしろ」

「「ええ・・・・・・っ」」

これには軍師と陳震が同じ反応をした。
陳震は南郡で趙雲のそばにいたので、軍師の食事についてほぼ正確に知っている。

「・・・軍師様と同じ・・って・・・おれ、死にます」

陳震は細身であるほうだ。が、育ち盛りである。『朝は茶だけ』『昼はおにぎりいっこ』『夜はお茶碗半分のごはんと鶏』なんてそんな。
劉軍は貧乏だが、飯はがっつり出るのが自慢であるのに。

「そうですよ。このような子どもにそのようなこと」
先ほどは子ども扱いされて真っ赤になった陳震であったが、このときは軍師の主張にこくこくと頷いて同意した。

「あなたが飯を食えば、何の問題もありません。俺は軍務があるので、行きます。陳震、軍師をよろしく頼む」

二人の主張に取り合わず、物々しい軍装の肩衣をひるがえし、趙雲がきびすを返す。
ちょっと待て、そこは、軍師、陳震をよろしく頼みます、と言うのが筋だろうがと諸葛亮は青筋を立てた。

「育ちざかりなのに。背が伸びなかったらどうするのです」

「背が伸びる呪文を教えたらいいでしょう」

趙雲は振り返りもしないで廊下に消えた。


 






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(2014/7/12)

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