初色1 魏孔(私設)

 

悪辣な役人から、とある妓楼を救った。
官人とは本来は民を守るために存在するはずであるものを、権力をもちいて弱者を虐げるものはどこにでもいる。
そういう者を一人残らず排除したいと諸葛亮は考えている。無論、一人残らずというのは不可能ではあろうが、主君である劉備の賛同を得ている事は心強いことだった。

妓楼の女楼主の信頼と忠誠を得たことは、思いがけない収穫だった。
「妓楼とは諸国から人と一緒に情報が流れ集まる場所。諸葛軍師に、お流ししましょう」
「ありがたいことです」

妓楼に仕える幼い子どもに文字を、技女には楽や詩作を教えたりして通ううち、妓楼通いが噂になっているようだが、別に支障があるわけではなし、かえって利点のほうが多かった。
豪傑が集まる豪放零落な軍団にあっては潔癖で堅苦しい性格が浮くものだったのに、妓楼遊びの噂は男たちの歓心を買ったようだ。
若い将校に女遊びの秘訣を聞かれたり、会談する豪族に冷やかされたりもする。


妓楼で茶を飲んでいた時、ふと女主人に云われたのだ。
「恋をなさいませ」―――と。
「人が人として生きるのに、必要なことでありますから」


「恋?」
己は失笑したのだった。
「そのようなもの。している暇はない」


している暇はないのに、恋をしてしまった。
それも、どうしてこのような者に。
と、誰もが――自分も、相手も、主公も、あらゆる誰もがどうしてと思うような者に。




1月:長い一日



広い空は鬱屈したように薄墨色の雲に覆われ、樹々は茶変した葉を落として冷え冷えとした冬枯れの様相を晒している。
旺盛に生い茂った夏山ならばともかく、追われるものにとって冬枯れした森は身を隠しにくい。乾いた朽ち葉を踏みしめると音が鳴ることも不利だった。

荊州北部の山林の中、たちの悪い盗賊に出くわし、追われていた。
兵卒だったものが、とくに敗残した兵が、野盗へと身を落としてしまうのは戦乱の世の常態ではある。
出くわした盗賊は劉軍に恨みを持っており、諸葛亮を見分けて追ってきたので、おおかた赤壁にて孫権と劉備の連合軍に大敗を喫した蔡瑁の元配下かとも思うが、定かではない。ただ追いつかれれば盗られるのは金品で済まないのは明らかだった。

少数の護衛兵に守られて逃げながら、諸葛亮は己が足手まといになっていることをひしひしと感じた。

熟練の騎兵ならば下りられた崖であり、そこさえ越えれば易々と逃げ切れたはずだった。
それを諸葛亮は馬を御することが出来ずに、落馬するよりはと自ら馬を降りたのだ。
落馬による怪我で身動きとれなくなるよりはましだったが、事態は良いものではなかった。
暗鬱な森を徒歩にて逃げ惑いながら、無力さを噛み締める、

・・・趙雲がおればこのような事態にはならなかったであろう。
あの将の状況判断は的確で、地形を読むのもうまい。どのような危機におちいろうとも冷静に最善を選ぶ能力にたけている。
彼ならば諸葛亮が馬を御せない崖を避けたであろうし、崖に突っ込むはめになったとすれば、ためらわずに己の馬に同乗させて難なく突っ切ったであろうに。


ようやく賊から逃れ、ほうほうの態で陣屋に戻ると、知らせを受けた劉備が目を丸くして飛んできた。
「諸葛亮!如何した!?」
「・・・我が君。盗賊に出くわしまして」
護衛兵の一人も欠けていないことに安堵し、主公に拱手した。

「討伐隊を出していただきたい。劉軍に恨みを持っております。地形にも詳しい。元は、荊州兵とみえました」
「赤壁で敗れた兵卒が、野盗と化したか」
「おそらくは」
「分かった。すぐに手配しよう。――本当に、怪我はないのだな」
「ええ、なんとか・・」

室の中に向かって歩きながら己の姿を見降ろし、諸葛亮は苦笑した。
枯れ枝に引っ掛けた袖と足首に巻いた布が破れている。簡素にまとめた結髪もほつれて、なかなかに酷いありさまだった。
「子龍が離れた途端に、これか」
「はは・・」
図星を突かれて乾いた笑いがもれた。

「お前の身は、危険であるな。大勢が決した分、敗残の者たちの恨みをかっていよう。曹軍からの間諜も刺客もこの先はお前を狙うことも増えるであろう――しかし出歩くなとも言えんし」
「ええ」
机上の学問もひと通りは修めているが、諸葛亮の知恵が真に発揮されるのは、現実のほうだった。
地形、天候、風物、そして行政と、軍事。
すべてを実際に目で見て確かめて見極めて、実行する。
今回の外出も、地形を確かめたかったからだ。


「大勢の護衛をつけるよりは、腕が立つ将校をつけたほうがよかろう。子龍を戻すか?」
「いいえ。予定通り趙雲殿には桂陽を治めていただきたいと思います。我が君に忠誠を誓い、勇武に優れ、人柄も文句なく清廉であられる方が、南の抑えに必要でありますから」
「うむ・・」

本陣の居間に着いたとき、具足をつけた重い足音が響いた。
関羽と張飛であろうと振り向いて、浮かべていた笑みが戸惑いに変わった。
「野盗の討伐隊を出すそうではござらぬか、劉公。儂らに任せてくださらんか」
進み出たのは、かくしゃくとした老将だった。髪も髭も真っ白であるが、腰の据わった立ち姿になんとも渋い気品がある。

「ほう、黄忠殿が」
劉備があごに手を当て、ちらと諸葛亮に視線をくれた。
同意のしるしに、諸葛亮はうなづく。
この老将が勇敢で用兵も巧みだということは、関羽からとくと聞かされている。ことに弓は名手であり、馬上でも巧みに強弓を引くという。
荊州の地形にも詳しく、元荊州兵くずれの野盗を追うのは適任である。

「よう見極めてくれ。あまりにこちらに恨みと敵意を持つなら容赦なく討伐してかまわん。投降するならば許してわが軍に加えたい――それでよいか、諸葛亮よ」
「はい、我が君」

諸葛亮はかるく頭を下げた。
破れた衣服を着替えなければならぬ。

「ああ、そうだ。魏延」
「は」
黄忠より半歩ほど後ろにいた武人に、なにげなく劉備は声を掛けた。
思わず諸葛亮は目をそらす。
苦手、であった。
この魏延という男は。

「我が君。御前失礼いたします」
礼を取って退室しようとした諸葛亮の上に劉備の声が落ちた。
「魏延。しばらく我が軍師の護衛について欲しいのだが」


「は。軍師、・・・の、・・・護衛・・」
言われた意味が分からないというふうに、言葉が反芻された。
諸葛亮にも、意味が分からなかった。
「しばらく軍師の護衛をしておった趙雲が、桂陽に出兵しており不在でな。後任がおらず困っておったのだ。おぬしならば適任だ」
「・・・適任とは、まったく思いませんな」
ふてぶてしく応答した男に、まったくだ、と全力で諸葛亮は同意した。
「魏延、おぬし生まれ年は?」
「・・・光和5年でござる」
「諸葛亮は光和4年であったな」
「はい・・」
「ほうれ、年が近い。うむ、このように若く腕の立つ者はなかなかおらんぞ。魏延、おぬし、諸葛亮の側を離れるな。今日も敗残兵くずれの野盗に襲われてしまってな・・・まったく、囚われておったらと思うと、ぞっとするわ」
「我が君」
諸葛亮とて、野盗に捕まっていたらと思うとぞっとする。だが、この男が護衛として傍にいるのかと思うと、野盗をどちらがましかと思わず真剣に考えてしまいそうなほどに危機感と違和感がある。

「諸葛亮、魏延。これは命令だ。仲良くせよ、とは言わぬ。だが、互いに互いを尊重し、理解するよう努めよ。そして魏延、これは絶対だ。我が軍師を守れ」



「軍師、殿」
どうするのだ、と視線をよこされた諸葛亮は困惑したまま少し視線をさまよわせた。
ああまできっぱりと主君に命じられてしまえば、どうしようもあるまい。
苦手である、ということを知った上で劉備は傍に置かせたのだから、克服するしかないのだが、しかし容易くはあるまい。

「魏延、では儂は賊の討伐に行ってくるゆえ。軍師殿をよくお守りするのじゃぞ」
「黄忠!」
くそ、じじいめ、賊の討伐は俺が言い出したのだぞ・・!という遠慮のない怒号に諸葛亮は唇を曲げ、肩をすくめた。
賊の討伐の方がよほどましであるというのが本心で間違いあるまい。
それでも替われとはいわない。

荒く具足を鳴らして魏延が振り返り、諸葛亮が歩み出すとすかさず横に並んだ。後ろに付き従うという発想はまるで無いようだ。
「さて、軍師殿。護衛とは何をどうするものだ」
「自分で考えてください」
「は?」
「わたしを守れと主公は命ぜられた。命に、従う気はあるのでしょう」
「おう。守るとも。どうすれば守れるのかと聞いているのだ」
「それは、わたしの専門外のことです。わたしには他に考えることが山ほどありますので」

少し前に劉備軍の本営を油口に移し、公安と名を改めていた。
荊州の南部を平定し、治安維持という形でまとまった軍団を据え置き、文官を派遣して治世に当たらせている。
徴税と徴兵も始めていた。これはもう領土といってもいい。ただし仮初ではある。

目的は、益州。
荊州に腰を据えることはできない。ただ、荊州で力を蓄えることは必要不可欠である。
やるべきことは山ほどあり、考えるべきこともまた多い。


廊下を横に曲がる際に、言い添えた。
「これをまっすぐ行けば劉備様の夫人のお住まいですから。間違えて行かれませんように」
「ほう。殿の、奥方か。美しき女人であられるのか?」
声が弾んで喜色が混じる。諸葛亮は首を曲げて不遜な男をねめつけた。
「貴殿に関係あるまい」
「関係はないが。美女が居ると思えば士気が上がろうが」
「人妻であるぞ」
「人妻だからこそではないか。人のものだと思えばこそなお滾るものがある」
こやつは曹操と同類か・・・
死ね、と思わず言いかけたのを諸葛亮は咳ばらいをして誤魔化す。

「ここは?」
「わたしの、私室です。更衣をするのでしばらく待っ」
「待てい。中に、気配があるぞ」
ぐいと力任せに手首を掴まれて諸葛亮は低くうめいた。
この馬鹿力め離せ、と声を上げる間もなく男は大刀を抜き放つ。
左手に諸葛亮の手を掴み、右手に太い大刀の柄を握った魏延は、足で扉を蹴り開けた。


不吉な破壊音とともに勢いよく扉は開き、室内で悲鳴が上がった。
簡素な衣服をまとった娘が目を見開いて立ちすくんでいる。
新野から付いてきた娘で、この城の中で侍女のような仕事をしている。洗濯物を持ってきて、寝所の敷布を整えていたようだった。いつものことだ。

ふてぶてしい男は「曲者か?」とつぶやいて首をかしげたが、大刀を突き付けられた娘は諸葛亮と目が合った瞬間、洗濯物を放り出し、かん高い悲鳴を上げた。
「ひっ、・・く、曲者です、誰か、誰か来て・・・軍師様がならず者に捕らわれてる・・!!」
「無礼者めが。誰がならず者だ、下女の分際でよくも」
握られていないほうの手で諸葛亮は男の偉躯を押し留めた。
「無礼なのは其方のほうだ、魏延。下女などと貶めた言い様は止さぬか。この娘は家族ともども劉備様を慕って新野から付いてきた者で、あやしい者ではない」


その間にもばたばたと足音が響いて、衛兵が駆け付けた。
口々に「曲者か!?」と叫びながらあっという間に十数人の兵が押し寄せて、魏延を見るなり目を吊り上げて抜剣した。

「・・・魏延、離せ」
事態の収拾をつけるべく諸葛亮は冷静にささやいたが。
「離さぬ」
短く言い捨てた男にぐいと力任せに、彼の前側へと片手で抱き寄せられた。片手で掴み寄せるような勢いで、締め付けられて苦しくもある。
囲む衛兵の緊張の度合いがぐっと増した。
「応援を呼べ」
いや呼ぶな、という諸葛亮の声は、兵の後ろから心配げに見守る使用人たちの、この世の終わりのような嘆きにさえぎられた。
「あなおいたわしや軍師様、賊に捕らわれて」
「軍師様を人質にするとは、なんと凶悪な」

賊の討伐に出る気であった魏延は、武装している。
使い古した無骨な手甲をつけた手にむんずと握られた厚い刃を備えた大曲刀がひどく野蛮な雰囲気を醸しており、また輪をかけて当人は異様なほど目が鋭いいちじるしく凶悪な人相なのである。
諸葛亮を片手で羽交い絞めにして拘束し、四方に向けて大刀を突き付け威嚇する様は、賊にしか見えまい。

「・・・魏延、本当に、一旦、離してくれ」
「離せぬ。俺にとっては誰ひとり見知ったものはおらぬ。敵味方の区別がつかぬなかで、軍師を離して、どう守るのだ」

城の奥向きに仕える兵も使用人も身元は明らかで、諸葛亮はすべての顔と姓名を諳んじている。
しかしこの男にとっては誰ひとり知った顔はないのだ。
味方の陣中の奥深くで兵と召使いに刃を突き付けて威嚇するというのは尋常ではなく、まったくもって護衛としては不適切な愚かしい行為ではあるのだが、守ってはくれるつもりらしい。

「・・そなたの忠心、うれしくおもう」
風に乗せるようにささやくと、ふと、腕の力がゆるんだ。
だが、離されはしない。

諸葛亮はそのままに、声を張り上げた。

「皆、これなる者は、魏延文長という。新たに劉備様に仕えるようになり、劉備様のご命令によりわたしの護衛をつとめることになった。よく見知ってくれ」

兵たちはあっけに取られた表情になり、互いに目配せをしあったが、諸葛亮が合図をすると皆しぶしぶといった様子で剣をおさめた。
不信感もあらわな眼差しに対して諸葛亮がうなづくと、ぎくしゃくと軍式の拱手し、その後ろでは使用人たちもおずおずと頭を下げている。
魏延も大曲刀をおろした。まだ鞘には納めないものの。

「この通り、少々言動は荒々しいが、・・・・・・根は、やさしい、ところもある」
どうしてそのように言ったのか全く分からない。
或いは、そうあって欲しいという切実な願望なのかもな、と諸葛亮はひそかに苦笑する。

礼を取る者たちの誰ひとりすら感銘を受けた様子はなく、寒々とした沈黙が落ちた。

護衛の初日。外出したわけでもなく、城の奥深くにある自室に戻っただけでこの騒動。
この先どのような波乱が起こるのか想像できないし、したくもない。

諸葛亮が更衣しているあいだ、魏延は室内をうろうろとうろつき回り、物入れを勝手に開けて見たりしている。無礼者め、と苛立たしく腹立たしいのが大部分、一方でほんの少しだけ、獣がはじめてきた場所を嗅ぎまわっているようにも見えて可笑しくもある。
「扉が壊れているのは危ない」
「そなたが壊したのだ。なんとかしてくれ」
手早く白袍に着替えた諸葛亮は、民政について思いを馳せながらなげやりにいった。
扉などは、付いていれば問題ない。仮留めでもなんでもしてしのげばいい。

劉備に任じられた護衛とは聞いてもよほど信用ならぬのか、先程から何人かの兵やら使用人やらがちらちらと顔を出し、心配そうに様子をうかがっている。兵の眼差しには敵意すらある。
「夜もここで警護してやるゆえ、安堵いたせ、軍師殿」
使用人から、抑えた悲鳴が上がった。
あくまで上からな高飛車な言い様に、諸葛亮は真横を見た。長身である諸葛亮とほぼ同等の高さに、稀であるほどの凶相がある。

「・・・そなたが、ここに?」
「どう守るかは、自分で考えよと、軍師は言われたではないか。俺のやり方で守るゆえに、口を出すな」
「出さないわけがあるか、莫迦者」

起居のための奥棟を出て回廊を渡り、政庁となっている表の建物へと辿り着く。
行く先々で兵たちがざわめいた。
軍師が賊に捕らわれた、軍師に新しい護衛がついた、という虚実の入り混じった噂が流れているようだ。
日が暮れかかっているが、長い一日はまだ終わりが見えない。




さて夜も更けてきた。
燭灯のひとつがふいに消え、顔を上げて見るとほかの明かりも揺らめいている。
これは新野であれば無骨一辺倒の砦だったゆえ、どこからともなくはいりこんだ隙間風のしわざであったろうが。
長江南岸に位置するここ公安もそう大きくはない都市だが、新野よりは風雅な趣のある堅城である。

「油が切れましたか?補充しておきましょう」
警備につく若い者が、燭灯の油を注ぎ足してくれる。
「本当はもうお休みいただきたいのですがね」
壮年である警備隊長が苦笑しながらものやわらかく声を掛けてくるのに、諸葛亮は感謝の意をこめて微笑した。
警護の兵は本来ならば私室にまでは入ってこないのだが、居間に明かりがついていれば、政務に没頭しすぎる諸葛亮の身を案じて、こうして顔を出して気遣ってくれる。
朝からいろいろあったせいか、今宵はどうも集中できなかった。

「それにしても、あの魏延とかいう方は?壊した扉の責任を取って夜警の任につくって言っときながら、一向に来ないじゃないですか」
若い警備兵の口調は非難がましく、反感がにじんでいる。
あの男とは日暮れ前に、政庁にて別れた。軍の訓練だといって張飛が引っ張っていったのだ。
関羽も張飛も、急激に増加した軍兵の調練に心血をそそいでいる。兵馬の訓練と共に、兵馬を率いる将の育成もまた急務である。

「城内ならば、おられなくとも構いませんがね。外出の折などに随行していただければ」
警護隊長が言うのに、頷きかけた時。
「軍師、遅うなった」
夜の静けさを破るように、ぬっと偉躯が現れた。
若い兵は反射的に剣を抜きかけたが、隊長のほうは落ち着いて目礼を取っている。
甲冑は外してあり、武官衣をまとっている。意外に洒落者らしく少しの朱色を交えた銀灰の袍は、がっちりとした体躯によく映えていた。ただし少々酒臭い。
「張飛将軍はまことに強い。いや驚いた、あれほど完膚なく叩きのめされたのは久しぶりだ。黄忠のじじいも年のわりにたいがい強いが、あの御仁は桁違いだ」
酒が入って機嫌よいらしい物言いに呆れたものか、警護の隊長はしょっぱいように顔をしかめている。

「張飛殿の兵馬は強く、勇武も畏怖すべきものだ。それに、酒も強く、良い酒を気前よくしこたま飲ましていただいた。男の中の男、豪傑とはあのようなものであろう。感服つかまつった」
「・・・御静まりあれ、魏将軍。軍師様の私室であるのですぞ」
「おう。軍師は、私室でも政務を執っているのか。夜中までご苦労なことだ」
「張飛殿に、叩きのめされたのですか?」
筆を置いた諸葛亮は、書簡を巻き上げた。
寒さで指先が強張り、あまり集中できない。今夜はもう切り上げようか。

「そうだな、まずは兵馬を率いさせられて、そのあと馬を下りて討ち合ったが、徹底的に叩きのめされた。話には聞いておったが、聞きしに勝る剛勇ぶりよ」

諸葛亮は、無言のままに警備隊長と目を合わせた。
張飛に叩きのめされたら、生きているだけで僥倖。頑健な男でも数日間は起き上がれない。立って歩いているのですら尋常ではないのに、このように意気揚々としているのは異様だ。

「よく、身体が動きますな。痛まれてはおらぬのですか」
隊長が言い、顎の下に指をあてた諸葛亮もじっとうかがう。
「うむ、痛い。だが、打たれてはおらん」
「打たれて、ない?」
「途中までは尋常に受けておったが、張飛将軍の怪力ぶりに腕がしびれてきてな。利き腕をやられては叶わんので受けずに流したが、反撃する暇がまるでなかったから、今日のところは完敗よ」

しん、と沈黙が落ちた。
警護隊長も真剣な顔で考え込んでいる。
張飛とまともに打ち合えるのなら、中華全土を見渡しても稀なる豪勇の持ち主ということになる。
かわしただけというが…どうであろうか。


「かわしただけ?ふん、逃げ回ってたんだろ」
「ところで、軍師。飲んでばかりで食っておらんのだ。腹が減ったのだが」
若い兵の悪態をまるで気に留めない言いざまに、諸葛亮はおもわずひるんだ。
「厨房はどこだ。もう誰もおるまいか、なにか盗んでこようかな」
「盗むな」
「いや、盗まんでくださいよ」
諸葛亮と隊長の声が重なる。
「魏将軍。糧食に手をつけたとあれば、軍罰に処せられますぞ」
「そうだろうな」
警備の隊長が、先程から魏延を将軍と呼んでいることに、諸葛亮は気付いていた。
魏延は漢帝国の中では勿論のこと無位無官で、劉軍の中でさえ将軍位にはないのだが。
長年劉軍で戦歴を重ねてきた警備隊長は劉備と同年代で、魏延とは親子ほども年が離れている。そういう歴戦の兵から見て、この無礼な男は、兵を率いる将たる者に見えているのだということが気になった。


「今夜の執務は終わりにします。休む前にすこし、夜風に当たりたい。――魏延、兵の詰め所に夜警の者用の夜食が用意してありますので、案内しましょう」
「軍師様、あれは寝ずの番をする将兵のためのものですよ!こんなやつに」
「よろしいのか、軍師殿が軍罰に処せられるのでは?」
「その場合は護衛も同罪でしょうか」
「いや、俺に飯を与える為だからな、一緒に逃げますぞ」
「ふっ」

扉は、魏延が開けた。それくらいの心得はあるらしい。
「俺が付くゆえ、隊長殿は下がってよいぞ」
「軍師様の夜更かしと夜歩きは、警護の者泣かせの悪癖であられるゆえ。見失いませんように、魏将軍」
「夜歩き?ほう、女か、軍師殿?」
警護するつもりであるのか肩を抱いてくるのに諸葛亮が口を開く前に、激昂した若い声が飛んだ。
「もう我慢ならない、無礼なならず者め。軍師様に触るな!」
兵の抜剣より魏延の蹴りのほうが早く、兵の身体は壁に叩きつけられる。
諸葛亮の身体をゆっくりと離して魏延は兵に近づき、喉元を掴んで無造作につるし上げた。苦渋を含んだ隊長の声が懇願する。
「殺さんでください。我らに刃を向けた昼間の件と、相殺にしてくださらんか」
「おお、今宵は良い夜ゆえ、殺さずにおいてやるわ。幸運だな、其方。俺に喧嘩を売ってこの世に生き残っておるやつはそう多くはないぞ」
機嫌よく笑ってはいるが両眼にも声にも陰湿な翳りがあり、諸葛亮はぞっと背筋が寒くなる。
まるで子どものようにあしらわれ、締め上げられた首を両手で押さえて咳き込む兵の無力な姿に、思わず自分を重ねてしまった。

『仕える主君の首をはねて城を開け渡すは、許されぬ裏切りなのでは、ありませんか。
それにこの者、反骨の相があるような』

主君に対して諸葛亮がそう言った時、この漢は。
底光りするような強く暗く凄惨な目を諸葛亮に向けて、笑ったのだった。


 






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(2023/1/28)

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