初色2 魏孔(私設)

 

すっかり夜が更けてしまった。
星の美しい夜だ。手指の先が凍えるほどの寒さが、酔った身体には心地よい。
寝ずの番をする兵のために用意してあるという握り飯を数個拝借し、魏延を連れた軍師は私室に戻った。夜歩きはせずに今宵はおとなしくしているようで、居間の隅にある炉に火を熾して、湯を沸かしている。雅な風情の居心地よい部屋だった。

「魏延。右腕を、」
握り飯を食い終え、染み入る旨さの熱い湯を飲みながら、なかなか風雅な居間が様子を愉しんでいると、軍師がすこし遠慮するように言ってきたので、魏延は口をへの字に曲げた。
「なんだ」
「見せて、みよ」
言い返しても良かったが、控えめな命令口調にどうしてだか逆らう気になれない。

筒袖の武官衣を着ているので、衣をまくりあげたくらいでは腕全体をあらわにはできない。
手首にはめた手甲をはずし、袖が広がらないように巻いている荒布も外す。襟の合わせをゆるめ、右袖から腕を抜いて肩脱ぎにはだけた。
「思ったより、ひどいですね」
魏延の右腕の内側のつけ根から二の腕にかけては赤黒く腫れ上がっていた。

「少々張飛殿を怒らせてな。叩きのめされた」
叩きのめされたとはいうが、直に打たれてはいない。
調練用の棒きれだとしても、張飛の武器を受け続ければ、負担のかかり過ぎた筋肉は熱を持って痛む。
最初は疼くように痛み、執拗に攻められているうちに手首から腕のつけ根に鋭い痛みが走るようになった。
あの面倒くさい若者を吊るしあげたときも、実は激痛に襲われていたのだが、軍師が気付いていたのは意外だった。

「この傷痕は、いったい」
軍師が息を呑んでいる。魏延の体躯には傷痕が多く、それはうかつに衣を脱げば善良な常人を気味悪がらせるほどに悲惨なものだ。
「武人でありますからな。格好よかろう?」
「義陽の生まれでは?荊州では大きな戦は無かったでしょうに、どこかに出ていたのですか」
「いや。荊州は平和ぼけした地ゆえに名家の勢いが強い。卑賤の生まれで出世するには、無茶が要ったのだ」
「――にしても、この傷は致命傷なのでは……よく生きて」
大小の傷の中でもひときわ大きく心の臓をかすめるように斜めに走った古傷に白い手が伸びてくる。
「死んでいたほうが良かったであろうに、残念だな」
鼻で笑うと、軍師の表情は強張り、傷痕に触れようとしていた手が止まった。


「…腕の治療をしましょう」
諸葛亮が出してきた壺には、爽涼な香りのする液体が入っていた。
「強い薬です。かなり染みますよ」
「まさか。傷口が開いているわけではあるまいに」
壺から匙で掬い取ったものを、諸葛亮が自らの手のひらで受け取る。薄緑のさらりとした液体で、おどろおどろしい劇薬が出てくるかと案じていたので拍子抜けする。
自身の手に取っているので、魏延を害する毒というわけではなさそうだ。
本当に、治療をしてくれるというのか。
「では」
「うむ」
手のひらが、まず右肩の盛り上がった筋肉に押し付けられる。液をしみ込ませるようにしばらくそのままだった。冷たさが感じられた液と手がだんだんと温もり、じわりと痒みがわいた。
何度がそれを繰り返して肩から上腕へと薬液が塗りこまれるうちに、肌の表面が雪の塊を押し当てられたように冷たくなり、まるで細い氷で貫かれるような冷たさとひりつく痛みに変わった。
びりびりと刺激があるのと同時に、熱を持って腫れていた肩と腕が急速に冷やされていく感覚がある。

「う、おお、染みる。だが効いておるな」
「予想通りですが、染みますね。深山の薬草からとった薬液で、炎症を抑える強い効用があるはずです」
傷口のない肌に触れても染みる薬なのだから、手のひらで塗りつけた諸葛亮のほうも染みているのだ。冷たく痺れる手のひらを軽く降って痛みを逃している。

「貴殿まで痛まずともよいものを。筆か刷毛のようなもので塗ればよかったのでは?」
「人の手で触れて塗ったほうが、痛みが引きやすいようなのです。弟や妹の怪我の治療でも、そうでしたので。人肌のぬくもりが安堵を誘い、強張りを解くのかもしれませんね」
話す内容はやわらかいものだが、軍師の口調と表情はかたくこわばっている。
仕えていた主君の首を斬って投降した裏切り者と、夜の私室で二人きりなのだから、無理もない。
「軍師殿は、俺のことは嫌いであられるのだろうに。それを弟妹とおなじ治療をしていただけるとは、礼を申し上げる」
魏延は、本心と嫌味が入り混じった礼を丁重に述べた。

いくばかの間があって、薬壺に栓をして脇に置いた諸葛亮が顔を上げた。顔は上がったが視線は合わない。
「嫌いでは、ありません」
「ほう、そうなのか?」
「少々、苦手なだけで」
「違いが分からん」
嫌われるには慣れている。問題なのは、戦乱の世ではそれが互いの生死に直結することなのだ。

傷ではないので包帯は巻かない。薬液が乾くのを待つ間は服を着られないが、火を焚いた室内は寒いというほどでもない。
風雅な居室で、まるで神仙のような雰囲気のある軍師に手ずから手当てをしてもらえるとは、僥倖であろう。たとえそれが、己を嫌っている者であろうとも。

「この傷を受けたとき、周りのものは皆死ぬのだろうとせせら笑うていた」
「敵兵が?」
「いや、味方の、上官だ。俺はどうも人に嫌われる性質のようでな」
「――……」
「治療もされずに捨て置かれ、周りは皆死ぬと思うていたが俺はまったく死ぬ気はしなかった。死んでやるものかよと思ったし、生きてあの上官をぶち殺してやるとばかり思っていた。実際に、殺してやった」
「それが、韓玄だったのですか」
「違う。もっと昔のことだ。まあ、実力も器量もないのにうまく出世した無能な男という点では、よう似ているが」

右腕をみると赤みがすこし引いている。腫れは引いても痛みはやわらぐどころか、脈打つように腕全体に広がっている。
これほど痛めつけられようとも、張飛を憎む気はない。やり方は乱暴ではあっても、強い軍を作りたいという強烈な意思がよく伝わった。
強い軍にしたいという動機も、自身の見栄だとか立身出世といった我欲ではなく、義兄を天下の英雄に押し上げ漢室を守りたいという一途な大志なのだ。
無茶な調練をやらせるのも嫌がらせではなく、魏延を早く一軍を率いる将に引き上げたいのだという期待が感じられ、終わったあとは気分よく酒を交わした。どこに行こうともたいてい上官とうまくいかなかった魏延には、血が沸くような喜びがあった。
勇敢で忠義に厚いのに荊州軍では不遇であった黄忠も、劉軍では良将として扱われている。
劉軍に加われて良かった、と思う。

ただひとつ。
喉もとに刺さった棘のようなものがある。
それがこの軍師だった。

『仕える主君の首をはねて城を開け渡すは、許されぬ裏切りなのでは、ありませんか。
それにこの者、反骨の相があるような』

韓玄の首を討って、長沙を内側から開城させた。なるほど確かに裏切りである。
だが、無能な上官の下につかねばならぬ兵卒は悲惨極まりない。上官の見栄や保身のために戦わされ死んでいく将兵や市民は、無駄死にとしかいいようがない。
韓玄のおろかな判断で籠城戦になるのは避けたかった。それに、関羽と内通していると疑われた黄忠を死なせるのが惜しかった。
劉備の評判、新野の民とともに曹軍に追われた長坂の戦い、赤壁での勝利。それらを聞くにつけ劉備に仕えたいと思った。
魏延は、裏切りを悔いてはいない。

「軍師殿も、俺に死んでほしいと思っておられるのだろうな」
魏延は己の傷跡に触れた。治療をされなかった為に、ことさらに酷く醜い傷痕が残った。
この軍師もいずれ、己を死地においやるのか。無為な突撃をさせ、致命傷になりうる深手を負った魏延をあざ笑って放置したかつての上官のように。

「なぜ殿は、貴殿の側に、俺を置いたのだろうな。殿の大事な軍師殿を、俺が害するとは、いささかもお考えにならなかったのか――」
魏延は暗く目を光らせ、片方の手を伸ばして軍師の首に指先で触れた。
この首をへし折るのは容易い。
すぐ後ろに置いてある愛刀で首を落とし、夜闇にまぎれて長江を渡って夷陵の北に駐屯している曹軍に持ち込めば、褒賞にありつけよう。

太い手を急所に掛けられていても、軍師は動じてはいなかった。切れ長の黒い双眸でひたと魏延を見つめた。
「魏延。選択肢は、二つあると思います」
「聞こう」
「互いに関わらないようにして、言葉を交わさず私情を交えず、ただ傍にいて、危険な場合のみ守っていただくという方法」
「ふむ、もうひとつは」
「言葉を交わし、人としての心情を明かしあって、―――互いに互いを、理解するよう努める――」
軍師の首に手を掛けたままで、魏延はすこし身じろいだ。
軍師の眸が揺らいだので。

「わたしはそなたの上官のようにはなりたくない。嫌悪の情などで武人を死地に送り込んで笑っているようなものに、なりたくない。そのようなことをするために、軍師になったのではない……」
揺らいだ声と表情に、魏延は目を見張った。
どういう感情に彼が揺らいでいるのか分からない。だが目の前の男が、見かけほど冷たくはないことだけは感じられた。

「ふたつめで、良いが。殿が言われたのもまさしくそうであろう」
言葉を交わし、人としての心情を明かしあって、互いに互いを、理解するよう努める。
どうせ魏延は歯に衣を着せぬ。思ったままを口にする。

喉もとに刺さった棘は、当然まだ残っている。
だいたい反骨の相とかいうのは一体なんなのだ。
後頭部が出ているのが裏切り者の相だとこの軍師は言い張ったが、頭部の形なんてもの、どうしようもないではないか。


しばらくして、魏延は衣服を着た。腕はまだ痛い。
諸葛亮は鉄瓶を火にかけてあたらしい湯を沸かしはじめる。しゅんしゅんと湯気が立ちのぼる中で、諸葛亮はぎこちなく言葉を発した。
「早朝から視察に出て、野盗に出くわした。戻ったら新しい護衛ができた。その護衛が騒ぎを起こして――ずいぶん長い一日でした」
「そうかな」
そうして長い夜が明けて、たいそう寒い夜明けをむかえた。


 






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(2023/1/28)

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