初色3 魏孔(私設)

 



1月:同居



領土拡大にも女漁りにも熱心な曹操と比べて女人に関心が薄い劉備の妻は病床に伏しており、子である阿斗君はおとなしい子供であるので、城主の家族が住む奥棟はひっそりとしている。

幾つか連なる奥棟のなかで官庁にもっとも近い建物を、諸葛亮は起居のために借り受けていた。
美しい中庭を見渡せる居間があり、その奥の部屋が寝所である。
その広い居間の一角に、護衛が居座っている。
「殿に、軍師の傍にいて守れと申しつかっておるのだ」
護衛兵も使用人たちもどよめいた。

本来は、城主に寵愛されている女人が住むための部屋だ。
庶人の家屋よりはもちろんのこと雑然とした兵舎よりよほど快適に暮らすための設備が整っており、建物や調度、道具類などが立派であることが、気に入ったようだ。
堂々とふるまって過ごし、そこで寝起きしている。

護衛兵の動揺と敵意は比較的早くにおさまった。用兵の巧みさと独創的な戦法を用いることが兵の間で話題になっており、武勇に関しては一目置かれるようになっている。
使用人たちの困惑ぶりと怯えようはなかなかおさまらない。
諸葛亮とて困惑しているし少々怯えてもいるのだが、一緒に怖がっているわけにもいかなくて、召使いを落ち着かせる役である。
ついには泣き出した侍女をなだめるのに、「外見ではなく、内面を見なければ」と口にしたときは、誰よりも彼の者の外観にこだわっているのは自分ではないかと思い微妙な気分だった。


昼間、畑で採れた野菜を持ってきましたとにこにこしている農民を、魏延はいきなり斬ってしまった。野菜を山盛りにした籠からは抜き身の短剣が転がり出てきた。
農民だとて護身の武器くらい持つ、殺気は無かったではないか、民を斬るなんて、と他の護衛兵が口々に騒ぐのをぐるりと見下して、魏延は嘲笑を浮かべた。
「殺気がないだと?殺意があったではないか」
はたして負傷した農民の粗末な衣服を剥ぐと、衣服の下にも髪の結び目にも、隠し武器が幾つも隠されていた――

無造作に刀の血を振り払っている男に、ひとりの兵がおずおずと声を掛けた。
「殺意を感じるのはどう訓練すれば出来るのでしょうか」
「訓練?」
じろりと睨んだ男に兵はひるんでいたが、生真面目にこくりとうなづき数歩近付く兵のひたむきな様子に、刀を肩に担ぎ上げた魏延は少し考えてから答えた。
「さあな、死にかけることか」
「え、はい」
「一度、にこやかに笑うている相手に刺されて瀕死の境をさまよえば、人を不用意に信じることはなくなる。笑いながら人を刺すやつと、そうではないやつの区別は、つくようになるぞ」
「そ、そうなのですか」
兵は引き攣った笑いを浮かべて、気圧されたように半歩下がった。


この男にとって、自分はどう見えているのだろう。
諸葛亮は、この男の存在に自分が動じていることを自覚していた。
居室にこの男がいると、危険な獣がくつろいでいるように思え、危機感がどうしてもぬぐえない。平静でいられない。
そのような自分をこの男が感じ取っていないはずはないと思うと、余計に焦燥にかられてしまう。



「軍師殿は人嫌いなのか」
「人嫌いだといわれたことはありません」
掛けられた声に書き物の手を止めた諸葛亮は反射的に応えてから、声の主のほうに目を向けた。火の前にどかりと座ってくつろいでいる様は、どちらが居室の主であるのか分からない。
幼いころは気難しい子供だったという薄い記憶があるが、長じてからは里でも軍内や外交先でも、人当たり良い人物として通っている――筈だ。
「人を寄せ付けぬ壁を持っていように」
「それはどうだろう」
それは軍師である以上仕方がないことだ。味方でも明かせぬことはあるし、ただでさえ若輩、弱みを見つけられて侮られては困る。
「それは、そなたもそうではないのか、魏延」
「いや。俺もたいがい嫌いな者は多いが、その前にな、人が俺を嫌うのだ。壁は向こう側にある」
はっとした諸葛亮は当然自分に対する嫌味であるとおもって、火炉の前にあぐらをかいている男を振り返った。
「戦乱の世は良いものよ。嫌いなやつをぶち殺してやれる」
「わたしのことも、…ぶち殺したいか?」
思わず口にしてから、しまったと思った。
上官の幾人かを殺したという男だ。主君と皆の前で裏切り者だと己を誹謗した者を殺したいと思うかもしれない。
もちろんそうだ、と言い返されたらどうしたものかと息を呑んだ諸葛亮は、「どうだろうな」という、本気で考えているらしい返答にしばし動きを止めた。

「貴殿は、笑いながら人を刺す輩ではない。それは、分かっている」
「そう、なのか」
諸葛亮は己の手を見た。人を斬ったことはある。必死で、笑っている余裕はなかった。おそろしいと慄いたし、間違っても愉しいとは感じなかった。
この先、己は数百、数千、もしかしたら数万の人を殺すのかもしれない。自軍の兵たちを死なせるかもしれないし、敵軍の兵を殺せと命じるのかもしれない。
笑って人を殺す、殺させる余裕が出来るとはおもわなかった。そういう者になりたくもない。

くつろいで頬杖をついた男は、彼独特のふてぶてしい笑みを浮かべた。
「貴殿は、小心者だ。笑うて人を刺すような野太さと度胸は、持ち合わせておらぬ。この先もおそらくお変わりにはならんのではないか」
「そうか」
笑って人を刺すことはこの先も無い。
「わたしは、小心か」
「ああ」
小心ゆえに心を痛め、おののき、悩み、苦しむであろう。この先もずっと。
それで良いのではないか。人の心を失ってしまうよりはずっといい。
褒められてはいない。おそらくけなされたのだろう。
それでも諸葛亮は、男の言葉が嬉しかった。


 






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(2023/2/5)

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