初色4 魏孔(私設)

 



2月:寝酒と占い



妓楼の女主人が訪ねてきた。文を寄越すこともあるが、時々やってくる。
漢中や長安を行き来する商人からの情報、曹家の子息が主催する詩会に参加した詩人が見物したという銅雀台の威容、旅人から聞く都市や街道の様子、各都市の流行、婚姻と葬式、噂話。
女の話は多彩である。
「ああ、そういえば。うちの妓楼に、占いをよくするものが逗留しておりますの」
「占い?」
「ええ、是非お越しくださいませ」
「天下の趨勢でも占ってもらえと?」
「恋占いが、とてもよく当たるのですわ」
「―――…」
この女人はいったい幾つなのだろう。
えたいのしれぬ微笑が、おそろしいほどに美しい。





まるで正反対のように思える魏延と諸葛亮にはいくつかの共通点があって、そのひとつが夜更かしだった。
夜がふけるとともに深まる暗闇をひそやかに灯した明かりで押し返して、なにかに没頭するのを好む。


酒が温まったという合図をよこされたので、諸葛亮は読み終えた書簡を脇に置いて静かに立ち上がり、火炉の前に行った。
元は諸葛亮が茶を煮るのに使っていた愛用の鼎は、すっかりこの男専用の酒を温めるための器となっていて、諸葛亮は恨みがましい視線をくれた。
「傍若無人とは、そなたのためにあるような言葉だ」
茶は繊細な香りを愉しむものなので、茶を煮る鼎はそのほかの用には使わない。
だというのに、この男ときたら勝手に汁を煮るし酒を沸かす。
久しぶりに茶を煮た時に、なにか生臭いなといぶかしく思ったのだが、その晩に、愛用の大事な鼎で泥鰌(どじょう)と大根を煮ているのを見たときに勃発した口喧嘩は、それは壮絶なものだった。
魏延はうんざりと肩をすくめる。
「まだ根に持っているのか、しつこい御仁だ」
「そなただとて、愛用の刀で泥鰌と大根を切られたら怒るでしょう」
「怒るかよ。何人斬って臓腑をぶちまけたのか分からん俺の刀で泥鰌と大根を切って食う度胸がある奴なら、面白い」
「やめてください」
想像してしまった諸葛亮は白い袖で口元を覆った。
「軍師が言い出したのだ。気分を害されたのか、ふん、小心であられるな」
「黙れ、この無礼者め。百歩譲って酒は良いですが、汁は禁止です」
「細かいな、どうでもよかろうに」
もう茶には使わないが、だとしても汁はなにか嫌だ。理屈ではなく。

魏延は凝り性で、ありきたりでは満足せず何かと工夫を凝らすのを好むようだ。夜更かしと同様にそれもすくない共通点だと思う。
魏延が酒を温めるのはほとんど毎晩のことだが、どちらかが酒に何かを足すようになった。
美味、あるいは滋養を追及して。
干した小魚、生姜や果実、香草に薬草。酒自体も、しばしば変わる。

今夜はとろりとした赤い酒だった。
「果実酒?」
「いいや、米の酒だ」
「これは――」
美味い。
熱くて甘い酒が甘美な芳香とともに喉をすべり落ちていく。
「ほれ」
鼎の中から器用に箸で摘まみ上げたものを、魏延が諸葛亮の口もとに持ってくる。近すぎる距離感にしばしためらったが、魅惑的な甘い香りに誘われてつい口を開けた。
「ん、」
熱い。甘い。――やんわりと噛むと酒と混じった甘い汁がじゅわっとでてきて口中に広がる。柔くとろける感触を舌で楽しんでいると、甘さが酸っぱさに変じた。甘酸っぱさがたまらない。
「蜜に漬けた果実よ。お気に召されたか」
気に入ったのならもう一杯と差し出された酒を飲むと、ほぐされた果肉がとろけて更に芳醇な風味になっていた。熱さと酒精とが相まってかっと胃の腑が熱くなる。
「杏(あんず)かな」
「さあ知らんが」
「美味い」

あまりの美味さにさらに数杯を重ねると、胃の腑はもちろん手足がぽかぽかと温かくなった。
「これはよく効く。すぐに寝られそうです」
「左様か」
諸葛亮は居間で政務を執っているあいだ、魏延は気ままに好きなことをしている。
夜も更けてきたころになっておもむろに、寝酒を温めはじめる。それが寝る合図のようになっていて、一杯か二杯、誘われるままに相伴にあずかるうちに身体が温まり眠気がやってくる。

「軍師殿は意外にも私室にて俺が気ままに過ごしておること自体は、あまり気にしないのだな。もっと、嫌悪されるものとおもっていた」
「嫌悪は、ある。愛用の茶器で泥鰌と大根を茹でていられたときのあの衝撃」
「忘れろ」
「記憶力は良いもので」
「執念深いともいうな」
嫌悪はある。それ以上にえたいのしれない危機感がある。
「数年前まで狭い家屋で弟妹と暮らしていたので、人の気配自体は、別段気にならないのですが」
この男だけは違う。身内と異なるのは勿論のこと。
ほかの誰とも異なる。
どうしてこうも胸がざわつくのだろう。それに、――
眠気が襲ってきて思考がまとまらない。諸葛亮は立ち上がった。
「もう休みます…」
「軍師。まさかとは思うがな、俺は、弟御に似ているのか?」
「それこそまさか。まるで似ておりませんね。そなたの生命力とかずうずうしさの十分の一でも均にあれば安心――いや、不安かな、……」
「ふん、弟御に反骨の相などはあるまいしな」
「魏延、そのことなのですが」
眠い。甘い酒の余韻が心地よく、あたたかく気持ち良くて、そして眠い。
「うん?」
「先日――占いをよくするものに会いました」
「は、占い?」
「むりやり恋占いを、―――いや、それはどうでもよくて、手相の話」
「手相だと?嫌なことを。俺は、手相はだいぶん悪いらしいぞ。占いなぞ信じてはおらんが、気持ちの良いものではない」
「いやそれが、手相とは、変わるものだそうです。結婚運が無いとか、寿命が短いとか、気にしつつも精進し、努力して我が道を突き進んでおれば、手相は変わってしまうことがあって、運勢も変わるということなのです」
「ほお?」
「だから反骨の相というものを気にしつつも精進し、努力して突き進んでおれば、そなたの骨相も変わってしまうかも」
ふらりと魏延に近づいたかと思うと、白い手をそっと伸ばして、魏延の後頭部に触れて、おずおずと撫で始める。
大まじめな顔をして、心配そうに声をひそめた。
「ああ、まだありますね、反骨……裏切っては、いけませんよ」
「驚くほど酔っておるな…軍師殿。裏切ることは二度と無いと言っておるのに。というかな、反骨の相などというもの、存在を主張しているのも、信じているのも、貴殿だけだ」

立ち上がり、ふらりと歩いた軍師は隣室へと消えた。そこが彼の寝室である。
魏延は鼎に酒を注ぎ足して、蜜漬けの果実をもう一つ入れた。
こういう寒い夜には、甘い酒も良いものだ。
手元では小さな赤い火が燃えている。細い木片がぱちぱちと音を立てていた。
酒を飲み干して、魏延はあくびをひとつした。
さてもう寝るか。


 






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(2023/2/5)

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