初色5 魏孔(私設)

 



2月:賄賂



けたたましい音を響かせて箱が床に落ちた。

両手で持つにちょうど良い大きさの平たい形状の木箱は、蓋つきで黒く塗られていて、縁は金の箔で飾られており、箱自体が上等であるし高価である。
そういう箱が床に放り出されて、蓋が開き、ざらりと金色の粒がこぼれだした。
床がきらきらとして美しい。

「おお、失礼をした。しかし中身は菓子であったはずが。なんと驚いたものですな、これは菓子ではないぞ」

諸葛亮はときおり、慇懃無礼な口調であると人から揶揄されることがあり、そうならないように気を付けている。
だがわたしの口調など、この護衛の慇懃無礼かつおそろしく嫌味な口調に比べれば子どものようなものだな…としみじみと思ってしまう。

向かい合った相手は、わなわなと震えている。
でっぷり肥えた体躯を豪奢な着物で飾り立てた男である。長江流域で商いをしているというその商人は、劉備ではなく諸葛亮を指定して面談の申し出をしてきて、会ってみると、気色が悪いほどにこやかな笑みを浮かべ、近付きのしるしに菓子を贈りたいという。

胡散臭いなと警戒しながらとりあえず受け取ろうとしたところ、横から護衛が手を出し、わざとらしく、箱を落とした。
果たして箱からざらざらとこぼれ出たのは菓子ではなく、まばゆく光輝く金の粒であったというわけだった。

魏延はたいそう凶悪な面相でにやりと笑った。
「さあて。この金は、なにか」
聞くまでもない。
菓子だったら、ただの挨拶の品として受け取るが。
商人が行政官に大金を渡すのは、賄賂にほかならない。
荊州南部の行政を実質的に掌握する諸葛亮が受け取れば、その時点で、収賄の罪になる。まあ、大半の行政官ならば受け取るであろうし、そしてそれが露見することはめったにない。
そうして一部の商人が不法に肥え太り、官僚は堕落し、政治は腐敗していく。
諸葛亮はむろん、賄賂なぞ受け取る気はない。
むしろ捕らえて締め上げたい。これほどの大金をぽんと贈ってくるからには、さぞかし悪辣な手口で儲けているのだろう。


「おお、分かったぞ。其方、劉備様を支援したいのだな?」
諸葛亮は冷然とした無表情で座っているが、その横に立っていた魏延が嬉々とした声音で言い放ちつつ前に出る。

こんなにも偉そうに堂々と前に出る護衛は、こやつくらいだろうな。

「分かるぞ、劉備様は器の大きな御方だ。漢室を守らんとする意志も見事なら、脇を固める武将もまた忠義あふれる豪傑ぞろい。この上なき清廉な智者であられるこの軍師も、お付きしておる」

「・・・・」
諸葛亮はますます無言である。
夕べ、戦陣を模した盤上遊戯にてあまりにしつこく食い下がるので「もう寝る」と言ったところ「逃げるとは卑怯だぞ、このクソ軍師」となじられたのは記憶に新しいのだが。

「おお、すまぬな、商人殿。大金ゆえ、賄賂かとおもうて逆上しそうになったが。なにしろこちらにおられるわが軍の軍師殿は、部下一同が居心地悪うなるほど清廉で潔癖で頭が固くておられるので、賄賂はお嫌いで、お受け取りにならないばかりか、罪に問うであろう。しつこい性格であられるゆえ、捕縛され拷問されるかもしれんぞ、貴殿」

この茶番にいつまで付き合わなければならぬのだろうか。
人形でもつくって椅子に置いておいて、ほかの仕事がしたい。

「だが、貴殿が我が殿、劉備様を支援なさりたいというなら話は別だ。善意の寄付金であれば、喜んで受け取るぞ。さて、何に使って欲しいというご希望はおありか?武器の鋳造か、食糧の調達か。あっ、そうだ、馬の補給。そうしよう。それで、よいであろうな?」

最後には機嫌よく笑って、腰に下げた大曲刀をわずかばかりに抜き、厚い刀身をちらつかせる。
怒涛の攻勢にひと言も口をはさめなかった商人は青くなったり赤くなったりしていたが、さいごには、
「も、もうそれでよい!」
と叫んで、椅子を蹴立てて帰ろうとしたのを、むんずと襟首をつかんで力づくで引き留め、寄付であると証文まで書かせる周到さである。
にんまりと笑った魏延は証文を握りしめ、商人の肩をがくがくと揺らして、「寄付ならばいつでも受け付けている。是非また来られよ」と言っているが、どう考えても二度と来ないであろうし、なんなら長江南岸には近づかないかもしれない。


「武将をやめても、やくざか詐欺師で十分食ってゆけましょう。すばらしい才能です」
諸葛亮は力なく言った。どうしてこのような男と、と悩みは深まるばかりである。
「多彩な才を持つ護衛がついていて嬉しいだろう、軍師殿」
「はは…」
この男が護衛についてから一か月あまり。
まことに悪辣なくらい頭が回る。
菓子だと信じて受け取っていたら、賄賂を受けたことになる。そうなってしまえば、悪徳商人に弱みを握られたようなもので、どこか付け込まれるものだ。
金を受け取らずに突き返すだけなら、誰でも出来ることだが。
賄賂は断固として受け取らないという姿勢を示し、賄賂ならば罪に問うと脅した上で、劉備の思想に共感しての支援、善意の寄付金としてしまえば、幾ら受け取っても構わないし、商人に付け込まれることもない。

「軍師、これは俺の手柄であろうな」
だまし取ったというか、脅して寄付させた金を箱ごと揺すってじゃらじゃらといわせている。
「なにが言いたい」
「馬が、欲しい。よい馬に乗りたいし、兵にも乗せたい」
「よい馬に乗れば、張飛殿に勝てそうですか」
外出もなく来客も無い日の昼間、魏延はたいてい張飛のところへ行って、調練を行っている。
兵を統率する力量と豪勇は軍内に浸透し、関羽に気に入られている黄忠と並んで、自然と将軍と呼ばれるようになっていた。
ただし張飛にはまだ勝てていないようだ。一対一の打ち合いでも、兵を率いての模擬戦でも。

「もう少しで、なんとかなりそうなのだ」
「そうですか、ふっ」
こらえきれずに諸葛亮は吹き出した。
魏延は変わった将で、関平から聞いた話によると、なんでも調練場にさまざまな仕掛けをつくるらしい。穴を掘ってみたり垣根を築いてみたり。調練場に板を並べて迷路のようにして、合間を逃げ回って張飛をさんざんに引きずりまわしてからあっと驚くような場所から反撃したとも聞く。
魚を捕らえる網を盛大に投げ込んだときには張飛はげらげら大笑いしたそうだし、樹木の枝葉を燃やして大量に煙を発生させ騎馬兵を迷わせたときには、怒った張飛に調練場をひたすらに追い回されて、ついには城外まで逃げ出したそうだ。

あまりに正攻法ではないやりように、奇策を好まない関羽は少々おかんむりだとも聞くが、劉備は面白がっている。
諸葛亮も実は奇襲をよくするという戦いぶりには興味がある。そうとは言い出せないが。


「今日の件、劉備様にご報告を。我が君にお許しいただければ、軍馬の調達に使ってもよろしい」
「そうか!」
魏延はぱっと目を輝かせた。
武官はたいてい馬が好きだが、この漢もそうらしい。
「では軍師、千頭ほど良馬を頼む。それから俺の馬は、自分で選びたい」
「お許しがいただけたら、と言ったでしょう。それに千頭なんて、とても」
「では8百頭」
「いいところ百頭ですね」
「くそ、どこかに金は落ちておらんのか。江賊にでもなったほうが早いか」
諸葛亮は失笑した。
「その悪党面で、江賊?似合い過ぎてすぐばれそうですので、このまま劉軍にいたいのならやめて下さい」
「誰が悪党面だ!俺は漢室の再興を誓う劉軍の将であるぞ」
「それに今この時期に江賊など。周都督の水軍に完膚なきまでに滅ぼされましょう」
「負けるものか、と言いたいところだが、あの水軍を相手にするには分が悪いな―――ま、護衛がおらぬと軍師殿が困るであろうから、やめておいてやろう」
「はは、」
「俺は有能な護衛であろうが」
「ん?――ええ、まあ、」
「役に立っておるだろう?」
またじゃらじゃらと大金入りの箱を鳴らすのが催促されているようで、諸葛亮は歩きながらぱたぱたと扇をそよがせた。
「ええ、ええ、はい、はい。そうですね」
「繰り返されると嘘くさいものだ」
若干ふてくされたように言うので、まさか褒められたいのか、とちらりと横を見る。わたしが褒めると嬉しいのか、いやまさか。
事実としては、助かっているというのが正しい。偉そうで図々しい言動に閉口することも多々あるが、存外に器用で、兵や下の者を使うのが上手い。
「ええ、実は助かっています」
「、――!」
悪辣な感じがする凶相が、ぱっと振り返る。え、と思う間もなく、勢いよく逆側を向いてしまった。
興味が湧いて武官衣をまとった腕に手を掛けた。
「まさかと思いますが、照れています?」
覗き込むが、表情をみせまいと顔をそむけられた。
腕にかけたまま扇の柄で腹をつつくと、そっぽを向いたまま
「子どもっぽい真似はやめられよ」
と言うが、そっちだって十分こどもっぽいぞ、と呆れてしまう。

これが主公であれば、照れた時などはふくよかな耳たぶが赤く染まるので分かりやすいのだが。元々肌の色が濃いのであろう上に赤銅色に日焼けした男の肌色は、朱に染まっているのかどうか分からない。

だけどまあ、褒められれば誰だってうれしいものであろう。
諸葛亮だとて主公にお褒めいただけばうれしいし、張り合いが出る。
頑張っている事に対しては賞賛するべきである。
「そなたの武勇と機知は、頼もしい。頼みにしています」
よけいな口数はたいそう多い男であるのに、その日はむっつりと黙り込んでしまったのだった。


 






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(2023/2/10)

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