初色6 魏孔(私設)

 



2月:白梅



諸葛亮は私室の前の庭に出て、樹木を眺めていた。晴れた日の早朝のことである。
室の正面にある見事な枝ぶりの古木にしばらく前から白梅が咲きそうで気にしていたのだが、数日前から枝の先のほうから少しずつ花開きはじめた。
一年で最も寒い時期に咲く梅の花は、厳寒という逆境に負けずに意志を貫き通す、清廉で高潔な士にたとえられる。
また厳冬の初春にほかの花に先駆けて花開く梅花は、すぐれた時代を率先して切り拓く者にもたとえられる。
諸葛亮はひそかにそういう人物を目指しているのだが、それとは別として、寒さの中に咲いて香気を放つ小さな花がただ愛しくもあった。
「梅か。好きなのか?」
後ろから声が掛かったので、頷く。
「ええ」
そうか、と声が後ろから追い抜いていき、見る間に樹木に近づくと、最も綺麗な花をつけている枝をばっきりと折った。
止める間もない暴挙に啞然としている諸葛亮に、「ほれ」と差し出してくる。

「―――この、反骨め。取り返しのつかぬことを」
思わず彼専用の罵り言葉が口からこぼれ出た。
「あ?なんでだ。それに反骨と呼ぶなと言っておるだろうが、もう金輪際、裏切ることなぞないわ」
こういう奥棟に付随する庭園は、季節によって咲く花をいかに雅に見せるか、庭師によって厳正に管理されている。
短い間に生育する草花ならば、花を愛でるのに切ってしまってもいいだろう。また同じ寒中の花である椿のように樹形が重要ではない樹ならば。
だが樹姿が尊ばれる樹木の枝ぶりは、気の遠くなる年月を経て丹精されてきたものなのだ。
「特に、松や、梅の古木は、数百年に渡って代々守られてきたものを―――こんなにばっさりと」
諸葛亮の動揺ぶりに、さすがの魏延も表情を変えた。
「殿は、お怒りになられるか」
「まさか。我が君は庭を愛でる趣味はおありにならぬ」
ここは厳密にいうと城主である劉備の庭園とはいえ、梅を折ったと聞いて怒るなんて想像できない。
「なんだ、そうか」
少々青ざめていた魏延は、それを聞いていつものふてぶてしい仏頂面に戻った。
「いや、よくない。よいですか」
それから魏延は寒風吹きすさぶ庭先にて軍師にこんこんと説教された。

「公安はただの仮住まいであろうが。樹木の枝ぶりなどどうでもよかろう。熱心に見ているので、俺は、軍師が欲しがっていると思うたのだ」
「数百年も先達たちが苦心を重ねて守ってきたものを、己の都合でばっさりと折り取るその所業、漢の帝室を簒奪しようとする者たちと変わらないではありませんか」
「う、む、――そう言われてみれば、そうなのか……いや、待て、たかが花が咲いた枝を折り取ったくらいで、なぜ天下国家を引き合いに出されて説教されねばならんのだ!」

見事な枝ぶりをばっきり折られた古木は確かに見栄えが悪くなってしまった。庭師が見たら嘆くであろう。魏延だとて、しまったな、と思わなくもない。
「軍師殿。俺は貴殿を喜ばせたかったのだ」
魏延は神妙に、本心を明かした。
「美しい花を軍師殿に渡したかった。まったくそれが本心で、それ以上でもそれ以下でもない」
おそらく彼にしては破格に誠実であるのだろう本心を明かされて、諸葛亮は虚をつかれてしまった。胸がきゅんとしてしまって、どうしたことかと動揺のあまり説教が止まり、胸を押さえて黙り込んでしまう。

混乱しながら考えた。
自分の説教は本心だったのだろうか。本心を理屈で隠しているのでは。本当はなにが言いたかったのだろうか。
庭師の丹精を台無しにしたことを、責めたいのか?
それもある。でもそれは言い終わった。
しばらく考える。
政治のことや外交のことなら難解であっても解くことが出来るのに、自身の心を探るのは容易くなかった。

「わたしは、蕾を見たときから咲くのを楽しみにしていて、待っていた。それで――あの枝の梅花が咲いたのを嬉しく思っていたので、枝が折られてしまったのが残念で、…悲しかったのだ」
言葉にするとそういうことだった。
「そうか――」
喜ばせようと思ったのに悲しませたのだと知って魏延は意気消沈した。
諸葛亮のほうも、本心を押し隠すために漢帝室までを引き合いに出してまで責めたのは卑怯なことだったかもしれぬと気が落ち着かない。


停滞した空気を吹き飛ばすように魏延は軍靴で地面をどんと踏んだ。
「おい、はやく益州を攻めようではないか!軍師、早う策を立ててくれ」
いきなり言いだすので、諸葛亮は瞬く。
「手柄を立てる。俺が広く名が世に残る将軍になればよい」
「…なにゆえ」
「俺は今日、数百年の丹精を台無しにしたかもしれん。だが、俺が出世して名が広く轟けば、これはあの有名な魏文長将軍が手折った梅じゃ、とこの先の数百年、この城に住む者にとっての自慢になるではないか」
「何を言っている」
呆れてしまった諸葛亮は、梅の枝を持って居室に戻った。

魏延が追いついたときには、軍師は青銅の花器に梅を挿そうとしていた。
宣言するまでもなく、魏延は高名な武将になるつもりだった。別にいま思いついたことでなく、昔から。なりたいというよりは、なるのが当たり前だと思っていた。
それにはまず益州攻めであろう。
蜀取りが成功して手柄を立てれば魏延は将として高名になるであろうし、諸葛亮もまた中華に名が知れ渡る存在となるだろう。
古木は、数百年に渡って代々大切に守られる。この梅もまたこの先の長い時を渡る。
勇将魏延に折られ、名軍師諸葛亮に渡されたこの梅もまた、有名になるかもしれないではないか。
「おい、軍師。この折れた梅の木が残れば、俺と軍師は、仲の良い将軍と軍師であったのだろうと、後世に伝えられるかもしれんぞ」
「え、――」
顔色を無くして硬直する諸葛亮に、魏延は口を曲げた。
「なんだその顔は」
「鳥肌が、立った」
袖をまくり上げた諸葛亮は腕をこすった。さするとぼつぼつと肌の表面が粟立っていて、背筋も寒い。諸葛亮は思わず身震いした。
「――軍師を俺のことを無礼だとよくなじるが、貴殿は俺に対してたいがい無礼だ」

さてこうもしれおれん、調練がある。政庁まで送るゆえ、さっさと支度をなされよ。
といわれても武人の方が支度に手間がかかるゆえに、諸葛亮は急がなかった。
水差しから花器へと水を注いで、枝を整える。
せっかく折られてしまったのだから、丁寧に活けて花が落ちるまで愛でよう。他の花を一緒に活けようか。黄色い花などがいい。あるいは朱色とか。
おもしろい枝ぶりであるので、花が無くなっても花器に入れたままにして取っておこう。

魏延は器用に背甲に結び付けた胸甲をつけ、肩の革帯を堅く留めた。
「魏延」
腰帯を締めて佩刀したところに、諸葛亮が寄ってきた。
こちらは文官の身支度を整えている。白を重ねた地味な長袍が、長身の彼が着ると清廉に見える。この軍師は見栄えが良い。
「枝を折られたのは、残念であるが」
「まだ説教か」
本当に細かくてしつこい男だなとうんざりしかけたが。
「――美しい花を渡されたのは、嬉しかった」

冷ややかな風が吹いて、淡く美しい芳香が鼻腔に届いた。
これが梅香というものか。
樹花の匂いなぞいちいち嗅いだことはなかった魏延はこの時、はじめてそのことを認識した。



「あのような荒くれ者につきまとわれて諸葛軍師もご不快でしょう」
政庁につくと魏延はさあ調練だと背を向けて去り、かわって文官たちに出迎えられる。
今日は新参の荊州出身の文人たちが我先にと寄ってきて、口々に言った。
「あのような粗暴な輩に護衛が務まるとは思えませんぞ」
「まことに」
一瞬黙った諸葛亮は、官吏たちを見回した。
「護衛として、不足はありません」
「諸葛軍師に取り入ろうとしているのではありますまいか」
「いいえ」
取り入ろうとしているものか。小心者だの細かくてしつこいだの、言いたい放題なじられているというのに。
「しょせんは反骨の者ですからな」
無表情のままに話題を流そうとしていた諸葛亮は怒りのあまり羽扇の柄を握りしめ、手の中でみしみしと木の柄がきしんだ。思わず地を這うような低音がぼそりとこぼれ出る。
「反骨と、言うな…」
「は、あ?」
自分だって今朝ついさっき言ったのだが。
でも、他の者がそう呼ぶのは許せない。

黙ってしまった荊州文官をぐるりと見渡して、諸葛亮は微笑を浮かべた。
「あれは存外にやさしく、風雅な男で。今朝はわたしに、白梅の枝を折り取って渡してくれたのですよ」
鳥肌が立っているのだろうな、とひそかに袖の下で肌を撫でてみると、別にぼつぼつはしておらず、通常通りすべらかであった。
「劉備様のもとでは裏切ることは金輪際ないと明言しています。反骨とは、もはや呼べますまい」
にこやかに笑いながら実はちっとも笑ってはいない眼でもう一周ぐるりと文官を見回した諸葛亮は、「さて、政務に取り掛かりましょうか」と己の書机に端座した。

淡々と政務をこなし、難解な事案の書き物をしている際に、ふと考えた。
どうしてわたしはあの梅の枝を活けた花壺に、黄色や朱色の花をあしらいたいと思ったのだろう。白梅に取り合わせるには少々派手だ。庭に、そのような色の花が咲いているわけでもないし――
はっとした諸葛亮の手から書簡がすべり落ちた。落ちた書簡は机にあたって、からんと小さな音を響かせたあと、床にまで落ちていった。
鎧の繋ぎ糸、大刀の柄から下がる房飾り。そして髪をまとめる巾や紐。
黄朱は、あの男が好んでいる色ではないか――?


 






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(2023/2/19)

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