3月:八陣1
あの者がそばにいると、どうしたことか不調だ。
動悸、息切れ、脈拍異常。
そばにいるときは勿論、思い浮かべた時の方が重症である気がする。
朝議の最中に胸を押さえる仕草を見咎められて、あわてた主公に医官のもとへと追いやられた。
「江東の周都督は肺腑の病であるご様子ですぞ。まさか我が軍の軍師殿までが」
周瑜殿のご不調は耳に入っている。長患いをされており、かなり悪い様子だという。
あの方が重篤な病とは、それもまた胸が痛む。
心配顔の医師によって念入りな診察を受けたが、別段に悪いところは無いという。
当然といえば当然で、あの男が近付いた時だけに起こる症状なのだから心因性のもの以外にありえない。
ついに嫌悪が極まって、身体にまで不調が出ているのだろうか?
いやなんだか、そんな感じではないのだが・・・。
日が暮れると主だった家臣が集まり、主君である劉備を囲んで夕餉を取る。劉備が人と触れ合い話をするのを好むゆえの習慣だ。
多忙にしている諸葛亮もこの夕餉の席には参加している。
軍の主だった文武の臣がやってきて、ざっくばらんな雑談をするなかで情報を交換したり、困りごとを相談したりもする。
その日は人が少なかった。
劉備は関羽と連れだって招かれた豪農宅へと出掛けていたし、他の武将たちは調練が長引いているようで姿がない。文官は、荊州南部に点在する都市に出掛けていて不在の者が多いようだ。
諸葛亮はひとりで食事を摂った。
張飛の気まぐれにより練兵に熱が入れば日が暮れても調練を続けることもあるし、そのまま夜間の訓練に突入することもある。
さて今日はどうなるのだろうか。
夕餉の主食は炊いた米で、あとは大皿に盛られた菜を各自好きに取って食べるのだが、劉備が不在であるせいか、今夜は大皿に盛られたおかずが少ない。
護衛は大食である。このおかずで足りるだろうか。均も細身のわりによく食べるほうだったが、あの男の食いっぷりは次元が違――
あ、また。
胸がきゅっと締め付けられるような、妙な感覚がある。
椀を置いた諸葛亮は胸をさすった。
「てめえ、何てことしやがんだ!」
「あいすまぬ。あのような騒ぎになるとはおもってなかった」
「許さん!!!」
かんかんに怒った張飛に、魏延はらしくなく殊勝に謝りながら廊下を歩いた。
騎馬軍の模擬戦で、なかなか張飛に勝てない。
年季が違うので当然といえば当然で、張飛とともに長年の練兵と熾烈な実戦をくぐりぬけた騎馬兵が、中核をどっしりと固めている。
魏延が知恵をしぼり奇策をくわだてて挑むと、前線の新兵などは面白いように乗ってきて振り回せるのだが、古参の中核は崩れない。
「くやしいがまだ歯が立たないな。張飛将軍の騎馬兵は精強さといったら、類をみないものだ」
「てめえ、おだてて誤魔化そうって手だな!その手には乗らねえぞ」
「関羽殿の陣もまた、巌のように盤石であられる。あれは熟練のせいなのか?」
「おっ小兄者は、昔からああだぜ。若い時からそりゃあ強くてよお、小兄者の率いる兵が巌のようって喩えは上手いぞ!てめえ見る目があんな――って、いや、だから誤魔化されねえって!」
いつも夕餉を取る広間に近付いて、魏延はうろうろしている文官に気付いた。
手に幾巻きかの竹簡を抱えて、こずるそうな目つきで広間のほうをうかがっている。
ぴんときた魏延はその文官に近寄り、肩に手を掛けた。
「な?――ひいっ」
「なにか困りごとかな、文官殿」
いきなり肩に手を置かれて振り返るといかつい武人がいたのだから、文官はぎょっとした。筋骨隆々とした目つきの悪い男が、笑みを浮かべている。
笑んでいるのに、いや笑んでいるからこそ怖い。醸される剣呑な雰囲気といい、みっしりと筋肉がついた体躯とあいまって、威圧感しかない。
「諸葛軍師に、ご用か?俺は軍師の護衛をつとめておるゆえ、取り次ぎいたしますぞ」
「む、いやその」
不自然に目をそよがせ冷や汗をぬぐう様を見て、魏延は凶暴な笑みを深めた。
「その書類、よもや諸葛軍師に押し付けるつもりではあるまいな。軍師は多忙ゆえ、瑣末な決裁をご覧になる余裕はおありにはならんのだが?」
こういう輩が、ひっきりなしに軍師のところにやってくる。
誰もが諸葛亮の頭脳を当てにし、頼りにする。
自ら考えるより、彼の知恵を借りたほうが早いし的確であるから。
実際、難航している案件でも諸葛亮は鮮やかに解決の糸口をつかんでしまう。
だからといって食事の席に押しかけてくるのは無礼だし、そもそも、その書はこの小役人が裁くべきものである筈だ。
ただでさえ多すぎるほどの仕事を抱えている諸葛亮に押し付けようというのは、腹が立つ。
「おい、まさかてめえ、軍師にてめえの仕事を押し付けようってのか、あ?」
「ひ、」
張飛まで口をはさんできてすごんだので、小役人は震えあがった。
張飛将軍よいぞ、と内心でほくそえんだ魏延はわざとらしく咳払いをした。
「いやいや、この有能そうな文官殿に限って、そのような卑劣な真似はなさるまい。なあ、そうであろう、貴殿は軍師の手を煩わせることなどないな?」
文官が小さく舌打ちしたので、魏延はこいつぶち殺してやろうかと腹の奥がざわついた。黒い雫のようなものが一滴、腹の底のほうに滴り落ちる。
「い、言いがかりだ。小官は、通りかかっただけだ・・!」
「そうであられたのか。では、行かれるがよかろう」
背を向ける文官と逆方向に歩んで、張飛と広間に入った。
「ああいうのは多いのかよ?」
「多いですぞ。軍師の知恵をお借りしたいと訪ねてくる殊勝な者なら俺も通してやるが。ただ面倒事を丸投げに押し付けにやってくる輩は、追い返しておりますな」
「ああん?どうやって見分けてんだ?」
「分かりますぞ。邪悪な気配が立っているかどうか」
「おめえみたいなやつに邪悪と断じられる奴が気の毒になってくんな!邪悪といえば、魏延!今日のおめえの悪辣さは!!兄者に言いつけるからなっ」
「それは、」
いやだ。
何とか丸め込もうとした矢先に、その姿が目に入った。
「軍師!」
今日は主だったものがおらず、諸葛亮はひとりで座っていた。
「ああ、調練は終わりましたか。今宵は主公がおられず、人が少なくて」
「淋しゅうあられたのか?」
ぽつんと座っている様子がわびしげで、思わずからかってしまう。
大股な数歩にて傍に行ってどかりと隣に腰を下ろすと、はっと身じろいで、居心地が悪そうにぷいっと魏延とは逆の方を向いた。
「そなたがいなくて淋しいなんてこと、あるはずがなかろう」
「ないのか?」
「ない」
後ろ側からやってきた張飛も、どかりと座った。
「なんだおめえら、あいかわらず仲が悪いのか」
「そうですな。軍師殿に嫌われており、まこと辛うござる」
仲が悪いのではない。
他者の悪意に敏感な魏延は、軍師が向けてくる感情が悪意でも害意でもないことが分かっている。
「・・・嫌いではない」
逆側を向いたまま、言いづらそうに軍師が言うので魏延はにやついた。
「ほう。では、好きなのか?」
「なっ」
うろたえるさまが、なんとも可笑しい。
冷静であり豪胆でもあると軍内で高く評されている軍師であるが、魏延といるときの彼は冷静でもないし豪胆でもない。それが可笑しくてたまらない。
先ほど腹の底に滴り落ちた黒いものは、すぅっと消えていった。
かわりに、白い羽のようなものが腹に落ちてくるようで、くすぐったい。
「聞いてくれ、軍師!」
主公がおられたなら真っ直ぐにそちらに行っただろうに、張飛は軍師のそばに居座るつもりらしい。
居間の中央に位置する囲炉裏は、諸葛亮があつらえたものだという。
天井から鉄鍋を吊るせば煮炊きに使えるし、火で獣肉や魚を炙ったりもできる。
なにより火が燃えているので、夜でも明るく暖かい。暑い夏以外は自然とこの炉端の周りに人が集まってくる。
竹串に刺した川魚が焼かれて旨そうな匂いが漂った。劉軍の食い物はうまい。
「聞けよ軍師、こいつな、とうとう今日は調練場に火を持ち込んだんだぜ!俺様に勝てねえからって、やり過ぎだろ!」
「火?」
「ただの火ならともかく、なんかしらんが爆発してな。すげえ音がして、馬がびびって暴走してよう、えらい騒ぎだったんだぜ」
焼けた川魚を食いながら魏延は聞き流していた。豪放零落、気っ風がよい豪傑だが、張飛はねちっこいところがあるのだ。
淡白であるはずの魚には辛みのある味付けがしてあって旨かった。飯にも酒にも合いそうで、いくらでも食える。
ありきたりではない風味であることから、これも軍師の発明品かもしれない。
「調練場で爆発とは、いったいなにを?」
軍師に問われて魏延は首をすくめた。さすがにきまりが悪い。
「竹の筒に油を入れて、火をつけたのだ。馬の足止めに良い案だと、思うたのだが――」
「ひとつ?」
「・・・十ほどだ。たいていは燃えただけだったが、ひとつふたつが爆発した」
「危険なことを。実戦ならば背に腹は変えられない場面でそういう物を使うこともあるでしょうが。味方同士の調練で、そのようなことをしてはなりません」
「けっ、そうだぞ!もっと言ってやれよ、軍師」
「怪我人は出たのですか、張飛殿?」
「いやそりゃ無かった。中核にいる騎馬隊だったからなぁ、馬が暴れて騒ぎにはなったがそんくらいじゃあな。新兵の隊でやられたら死人が出たかもしれん」
「中核を狙ったのだ。ああ、くそっまだ勝てぬな」
「いいかげんにしやがれよ、この若造!」
「ぐげっ!!」
張飛に左の肩を殴られて、魏延はしばしうずくまって悶絶した。
まもなく満ちようかという大きな月が出ていて、星が静かに瞬いていた。
劉軍に加わってから数か月たち、星宿が位置を変えている。夜はまだ冷えるが、吐く息が白いということは無くなった。
庭に咲いた白い梅が部屋からもれる灯かりに浮かび、ほのかな芳香を漂わせている。
「魏延。左肩を」
私室に戻った途端に言われて、魏延は唇を曲げた。
「今日は、打たれましたか」
「・・うむ」
逃げ足は自慢なのに、激怒した張飛から逃げ切れなかった。
軍師に治療されるのはもう何度目かのことであるが、どうにも胸がこそばゆい。
軍師の元には新しい薬がつぎつぎと舞い込んでいた。軍とはつまり人の集まりであるから、大きな軍のあるところには商売が活発になって人や物が集まってくる。
軍師は薬学にも秀で、向学心も好奇心も強くて入手した薬草を手ずから調剤したりもする。魏延は新薬の実験台あつかいで、しつこく繰り返される彼の珍妙な治療にしぶしぶ付き合っている。
以前は彼の弟君がやっていた役目だと聞くにつれ、才人の側近くにいる者は難儀だと同情する。
「この薬草は効き目が良くて、扱いやすい。大量に備蓄をしたいものだが。種を買って育ててみようかな・・」
そういえば軍師は劉備に仕える前は農夫であったのだったか。このように端整なたたずまいの農夫がいるものだろうか。いまは有能な賢臣にしか見えない。
種から薬草を育てるとは、ほのぼのしている。殺伐さのカケラもない。想像すると軍師はそういったちまちまとした作業も向いている気がして、魏延は喉の奥で笑った。
治療が終わり、魏延が衣を着ているあいだに軍師は治療の道具を片付け、薬草の効用やら生育条件といった事柄を書きつけている。
「殿の腹心であり、謀士であり、方士でもあられる。まこと軍師は多才な方だ」
兵書にいう方士とは、百薬を揃えて刀傷を手当てし万病を癒すという者。軍にとって心強い存在だ。
あぐらをかいた魏延は、長く嘆息した。
「どうしたら、勝てるのか」
あれこれと試したが、さすがに策も尽きてきた。
張飛は強い、そんなことは分かっている。味方としてはこの上なく頼もしい。
「陣立ては、どのようにしているのです」
軍の調練については関羽と張飛に任せているようで、諸葛亮が口を出すことは無く、調練を検分に来ることさえほとんどしない。
魏延と張飛とのやり取りは勿論、耳に入っているだろう。
前に軍師と約束した馬の調達は、劉備に許しをもらって少しずつ進めてはいる。だが馬が足りないということ以上に、なにかが決定的に欠けている気がする。
「陣か、・・」
あまり戦陣というものを考えたことはない。
奇策を用いて敵兵を混乱させてから突撃で勝敗を決するというのが、魏延の戦法である。戦いが始まれば相手の出方をうかがいながら適時を読んで軍を動かす。
陣形はというと、そういえば成り行きまかせである。
「率いる兵の、どのあたりに居るのです」
「俺は無論、先頭だ」
「いつも?」
「当たり前だ。隊の中で俺がいちばん強いのだからな。細かい指示を出さずとも強い者が動けば、隊の他の者が付いてくる。そうやって隊を動かすのが最も手っ取り早くて確実だ」
それに魏延自身が一兵卒であったころから、後方に動かずにいて、安全な場所からわけの分からない命令を出してくる将は大嫌いだった。
「後ろにいて指示を出すなぞまどろっこしい。それに、――」
「それに?」
軍師の賢しらな白面をちらりと見てしばし沈黙した後、魏延はふてくされつつ吐き捨てた。
「・・・俺は人から好かれない性質ゆえ。後ろから指示を出しても兵が動くとは思えないのだ」
「え゛」
彼らしくもない奇声を上げるので、魏延は不機嫌な表情をしつつ見ると、軍師は眉を寄せ、しみじみとした口調で言った。
「そなたのような傍若無人な、いや傲慢無礼な、・・・いやいや厚顔無法なふてぶてしい者でも、そのように気弱になることがあるのだな・・・」
「言い換えるごとにますます酷い悪口になっていっておるのは、わざとか軍師」
「いや違う、動揺して・・」
「ふん」
頬杖をほどいた魏延はのそりと立ち上がった。
「酒でも呑むか?軍師」
「え、ああ――うむ」
なぜか戸惑ったように後ずさった軍師だが、酒を断りはしなかった。
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(2023/3/12)
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