初色8 魏孔(私設)

 



3月:八陣2



魏延がつねに軍の先頭に馬を立て兵を率いるというのは知っていた。
その理由は、兵が自分の命令をきくという確信がないからだという。だから先陣の最も危険な前線に出て、付いてこさせる。それが手っ取り早く確実だと彼はいう。
いつものように酒を用意している背を見ながら、諸葛亮は考え込んだ。
自分と似ている。諸葛亮にもそういうところがある。
人を信じきれない。人を使いこなせる自信がない。人が思い通りに動くという確信がなく、いや動く筈がないと諦めている。
仕事は人に頼むよりも自身でやったほうが的確であるし早い。

だけど、それでいいのだろうかという疑問がつきまとっている。
この先軍団は必ず大きくなっていき、天下を三分しようとしているのに、それでいいのだろうか。



「魚鱗の陣形はとくに攻撃に優れ、うまく用いれば兵力差をくつがえすことも可能です」
熱い酒をすすりながら、また思考にふけりながら、諸葛亮は陣について説明することにした。
「関羽殿と張飛殿もよく使われる、というかあの二人が騎馬で突撃すると自然とこの陣形になることが多い」
「魚鱗の陣形」
魏延が繰り返す。諸葛亮の私物である兵書をあさって勝手に読んでいるだけあって、食いつきはいい。高名な勇将になるという野心のある男だけに向上心は旺盛なようだ。
諸葛亮は、戦場を模した盤の上に騎兵の駒を並べてみせた。

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「攻撃力が強く、先頭に強力な武人がいれば敵中を分断して突破が可能です。ただし、弱点もある」
「弱点か、それは」
魏延は首をひねって考え込んだ。
「この陣に殿は――大将はおられるのか?」
「そなたの戦いと仮定するならば、我が君はおられない」
「だとすれば、弱点などはないな」
魏延は断言し、酒の杯を唇に当てたまま諸葛亮は失笑した。
「うそつけ。分かっているだろうに」
魏延は肩をすくめてしぶしぶ言った。
「突破に失敗すれば、敵陣の只中に取り残されるのであろう」
張飛や関羽がよく使う陣形だというが、先頭に立った強い武人が突撃し、その武人を頼みとして敵陣を突破するとなれば、自然とこの陣形になることが多い。魏延がやっても同じだ。
  
「似ているが、より一点突破に特化した陣形が、鋒矢(ほうし)」
魏延は勢いよく身を乗り出した。はずみで酒がこぼれる。

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「矢の先端か。なるほど、より少数の兵での突破になるわけか」
「その通り」
流れるような手つきで諸葛亮が手拭いを差し出したので、受け取って酒に濡れた手を拭いた。こういう細かい気遣いに弟妹を世話したという経験があらわれていて何となくおかしくなるのだが、いまはそれどころではなく、盤上に描かれた陣形を食い入るように眺める。

「弱点は、より側面と背面が手薄であることだな?」
「まさしく。攻撃に特化した陣ゆえ危険が多い。先鋒隊、後続隊ともにつねに・・・・・・全滅の危険がある」
「そのような顔をなされるな」
諸葛亮の悲痛な表情に、魏延は驚いて声を上げた。
「軍師は、兵の犠牲に対して過敏になりすぎておるのではないか。たとえ勝利しても、犠牲は出るものだ」
それが戦場というものだ。
兵書には戦わないで勝つことが最善であると書いてある。政治や外交によって戦わずに済むのならそれが最善であるが、そういかないのが古今の実情である。

机上にて陣形の説明をしている最中に、兵卒の犠牲に心を痛めるあまり、顔を歪ませるなどと。
「軍師殿。貴殿は、軍事には向いておらんのでないのか。貴殿は小心であられるゆえ、大軍勢を率いる器ではないのかも―――って、いだっ」
魏延は奇声を上げた。筒の中からすくいとった駒をひとつかみ、投げつけられたのだ。
「騎」とか「歩」とか「砦」とか書いてある丸い駒は、きれいに磨かれた石である。顔に当たると痛いし危ない。
「目に当たったらどうする!子どものようなことをされるな!!」
「魏延。そなたはまことに、言いたいことを言い過ぎだ」
軍師は、手で顔を覆っていた。

魏延はあっと息を呑んだ。
自分はまことに、彼の弱いところを突いたのかもしれない。
主君の戦略指揮を補佐する軍略の士に対して、軍事に向いていないなどと、無礼にもほどがある。
だがそれはおそらく、真実だ。図星を突かれたからこそ彼は激高したのだ。
彼がうっすらと自覚し、無意識に怯えていた弱く柔らかい部分を容赦もなくえぐったのかもしれぬ。

軍略の才知は際立っている。才知により軍勢を勝利へと導くだろう。
だけど、戦果に高揚する以上に、戦場にて自らの策により人が生き死にすることに苦しむに違いない。

軍師は、見かけ通り冷静であるとか、見かけより遥かに豪胆であられるとか、軍内で評されている。
冷静であろうとし、豪胆であろうとしている。
だけど彼の本質は冷静でもなければ豪胆でもない。殿と同じほどに熱く、大望を持ち、それでいて小心であり臆病であると魏延は思う。
それは弱さであるとともに、彼の優しさであるのだろうとも思うて、らしくもなく胸が痛んだ。


「軍師、」
うろたえる魏延を前にして、諸葛亮は無表情に戻った。すらりと袖を払って、何事も無かったかのように端座した。
「さて、陣形の話の続きをしましょう。・・それとも、もう休みますか」
口元にはわずかな笑みさえ浮かんでいた。表情も声も整い、さきほどの動揺はうかがえない。
無かったことにするつもりなのだ。
そうやって外面をつくろい、本心を隠し、冷静であり豪胆でもあると上辺を見せかけて、――この先もずっと。


「軍師、貴殿は大軍勢など、率いなくてもよいではないか」
言った瞬間、なんという名案だ!と悦に入った。
「軍は、俺が率いてやるゆえ。軍師という職も、俺が就いてやろうか」
犠牲をおそれる者は攻めには向かない。ならばほかに攻めるものがいればいい。
それに軍師とは、要するに計略をめぐらし作戦を立てるもののことだ。魏延は悪知恵に自信があるし、実戦の経験をいま少し積んでいけば、戦の作戦立案もできるような気がする。

「戦場には俺が出てやるゆえ、貴殿は城なりと本拠地でゆったりと待っておればよい」
魏延は満面の笑みを浮かべた。さすればこの心優しき多才な軍師殿は国の守りに徹していれば良い。
この軍師は、守りの方にこそ才がある。人を殺すより、人を生かすほうにこそ。

たいそうな名案だと思ったのに、諸葛亮は顔を赤くして拳を震わせている。
魏延の提案に賛成し感激しているようには見えなかった。というより、どうみても激怒している。

「我が君の軍師は、わたしだ。そなたごときに渡すわけなかろう・・!」
「あっ、まだその兵書は読んでないのだ、投げるな!」
魏延が言ったのに、諸葛亮は手に持った竹簡を投げた。というより魏延に言われたからこそ思わず投げた。投げてくれ!とでも言われていたら投げなかっただろうに、力いっぱい投げつけた。
投げてから、しまったと思った。諸葛亮は書物というものを愛している。敬意を払っている。ましてや投げたのは青年時代から親しんできた古書である。
宙を飛んだ兵書はばしりとよい音を立てて魏延の額に当たり、奇声を上げた魏延がのけぞる。
あ、と思う間もなく、竹片を綴った横糸が切れかけて、半ばあたりから千切れたようになって、かろうじて受け止めた魏延の手からばらりと垂れ下がった。


どうして、この男の前だと冷静になれないのか。
人当たりのよい人物を演じることなんていつもしているのに。
気に食わない者を知恵でやりこめることも、笑顔でかわすことも容易にできるのに。
「向いているとかいないとか、問題じゃない。わたしがどうありたいか、だ。わたしのありようを、そなたが決めるな・・!」
この期におよんでも冷静に戻れない。感情は高ぶったまま諸葛亮は叫んだ。

軍師の視線は強かった。白皙の容貌に血色がのぼり、感情があふれていてすこしも冷静ではない、あふれる感情の矛先をまっすぐに魏延に向けられていることにおののく。

「悪かった、軍師」
言っていることは真っ当だった。彼の覚悟を侮った発言だった。
軍は、俺が率いてやるというのは本心だ。必ずそうする。
軍師という職に就いてやろうかというのは余計だった。
自分は軍師という柄ではない。
最前線に馬を立てて戦場を駆け巡りたい。
「城で待っているのは御嫌か」
「わたし抜きで、戦略を編み作戦を立て天候と地形を読み情報を集め外交をこなし食料と医薬の補給も行い軍の規則を整えて金銭の収支もほどよく合わせ、そして我が軍が勝てるというなら、そうさせてもらいます」
魏延は目を丸くし、気圧されてしばらくぼうっとしていたが、やがて笑い出した。
「分かった。あい分かった。まこと軍師は多才というもおろかな智者であられ、我が軍になくてはならぬ方だ。俺が行く戦場にも、必ず来てくだされ」
美しい黒の双眸を見詰めて魏延が笑うと、諸葛亮は驚いたように魏延を見返して、すこし口ごもった後でなぜか胸を押さえ、ふいと顔をそらして言った。
「・・・そなたは二度と裏切らず我が君とともにあるかぎりは、そうしてやろう」
諸葛亮の言葉に、魏延はまた笑った。



綴り紐が千切れてばらばらになりかけた書を元通りの順番に並べ直し、魏延は唸りながら読んでいった。
なにか策はないものか。
打倒張飛。将としての年季も格も違うのは認めるが、やられっぱなしは性に合わない。あの豪傑に一矢報いたい。
「張飛殿、関羽殿の軍に正面からぶつかって勝つのは、同数程度の兵力ではほとんど不可能だと思います。数倍の兵力差でも難しい。味方としてはこの上なく頼もしい存在です」
「分かっている」
「わたしなら謀略をつかいますが」
「敵なら俺でもそうする」
「張飛殿、関羽殿の弱点というと・・・」
「殿」「我が君」
声が重なる。視線を交わして、諸葛亮は首をかしげた。
「殿に美女をおくって篭絡するとか?」
「どうかな。我が君は女人に興味が薄い」
「何人か、こう豊満なのとか細腰の美女とか揃えれば、どれか気に入るのでは」
「却下。そのようなことをしたら病床の奥方様がお気の毒だ」
「では山海の珍味を用意し、美しい舞姫を招いて歌舞音曲の宴を開くというのは。殿を骨抜きにしてしまおうではないか」
「またしても女か。なんと俗っぽい」
「大勢の舞姫を揃えるのがよいし、仙女のごとくうるわしい、とびきりの女をひとりだけにするのも謎めいていてよいではないか。衣装や飾りも華やかなものにして、趣向を凝らした大宴会。よいぞ、男の夢だ!殿は苦労しておいでだから、たまの贅沢にめろめろに溺れてくださるかもしれん」
「・・・華やか過ぎても引かれるのでは。すこし家庭的な和やかな雰囲気も残したほうがいいとおもうが・・」
「それは軍師の好みではないのか。俺は豪勢なのがよい」
すでに深夜を過ぎているのだが、夜が更けるとともにますます魏延の眼は冴えて、高揚している。
「殿が女色と贅沢に耽溺すれば、張飛殿、関羽殿は大いに怒り、乱心されること間違いなし。そこを攻めれば勝てるぞ、軍師。協力してくれ」
「・・・魏延。われらが殿を篭絡して関張のお二人を乱心させてどうするのだ・・・」
「それもそうだな・・・」
女、女って。
なんだかとても嫌な気分になった諸葛亮は、顔をしかめた。


しらけた雰囲気になったところで、魏延は兵書から気になる箇所を見つけ、ばっと書を持ち上げた。
「なんと、将の性格別の攻め方が書いてあるぞ、軍師。なになに、短気でせっかちな者を攻めるには」
「ああ、それは」


「「持久戦にもちこむ」」
二人の声が、重なった。


 






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(2023/3/12)

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