初色9 魏孔(私設)

 


3月:八陣3



魏延は最前線に馬を立てることはしなくなった。
後方にいて指示を出す。
兵卒は困惑したようにちらちらと後ろを見てくる。合図の旗を上げさせても戸惑ったようにうごめき、陣形となるとおぼつかない。
合図は、鉦と太鼓の音、旗の色とその上げ下げ、声での伝達。後方から軍を動かすというのは、将も兵卒も慣れていないと難しい。
それを鍛錬するのが調練であるのだと改めて思う。
軍内で力量を認められるのに執心するあまり、最も大事な基幹の軍務をおろそかにしていた。
みれば黄忠が率いる軍は整然と統率された見事な動きである。
じじい、やるな。
黄忠と実戦に出るのが楽しみでしょうがない。

いつもは意気盛んに調練場を駆けまわる魏延が動かないので、張飛は拍子抜けしたようだった。
「なんだあ、てめえ、今日はおとなしいじゃねえか」
「思うところがありましてな」
「今日もやるんだろ、模擬戦?かかってこいよ、蹴散らしてやんぜ」
「止めておきます」
「へっ、なんだよ」
張飛はつまらなさそうに戻っていった。


「久しぶりに調練を検分しましたが、そなたの隊の統率はひどいものです。今まで一体何をしてきたのです」
調練を終え夕餉を食って私室に戻るなり言われた。
「来ておられたのか」
やり方を変えてまだ初日なのである。そう上手くいくわけがない。
肩をすくめる魏延に諸葛亮は嘆息した。
「張飛殿は面白がっても、関羽殿がお気に召していないというのも納得しました。機動力を駆使しての奇策も良いですが、その前に正道の用兵の基礎がないことには。奇襲の遊撃隊には使えても、軍の主力の一隊としてはあまりにも扱いづらい」
「であろうな」
魏延の用兵がなっていないのは思い知った。
今日の鍛兵を思い出すと頭が痛くなる。なんなのだ、あのぐずぐずした動きは。明日から特訓をせねばならぬ。



ちらちらと後方をうかがい、或いは先鋒に立たないのかと非難がましい視線をよこしていた兵卒も、魏延が後方にどっしりと構えているとじきに落ち着いた。
これまであれこれの策に振り回してきた隊だけに、臨機応変の対応力には優れている。合図への反応は反復により習得させるしかない。
「今日もやらねえのか」
「は」
「ちぇっ、なんだよ。俺様にやられ過ぎて、臆病風に吹かれてんのか、ああ?」
ひくっと頬が引き攣ったが、ここは我慢である。挑発に乗ってはならない。将には忍耐も大事であるのだ。

昼間は兵を鍛え、夜になると兵書を読んだり、政務を終えた軍師にまつわりついて兵法を教わる。
諸葛亮もまた、陣形については古今のものを学びながら考察中であるという。
「丸い陣というのはあるのか、軍師?」
「中央に本陣を置き、円形に陣を敷く方陣は、全方位に対する防御に優れていると思います。陣形を崩されない限り敗北はありえません」
「どうも俺に向いていなさそうな陣だな、軍師。まるで亀のようではないか」
「亀のように堅牢な陣ですよ」
「亀のように鈍くさそうだ」
「移動するための陣ではありませんから」
防御の陣。攻勢に出るほうが得意だが、そういうものも必要であろう。

「考えるに、陣形はほかに、縦長に直列するもの、縦の斜めに配するもの、三日月のように弓なりの形、あとは二列にならべたものも、有効に思えます」
「隊の動きがいますこし良うなったら、ためしてみよう」
「それぞれの特性、有効性と、弱点は?」
「うむ、直列の陣は正面突破に強く、側面からの攻撃に強いのではないか。斜め――斜め?斜めの陣・・ええい、意味が分からん・・!」



しばらく経つと特訓の成果があらわれてきた。
陣形を整えると、兵の集まりが一個の巨大な生き物のごとく有機的に動く。使いこなせると強い。そして、おもしろい。
それに張飛がじりじりとじれてきている。
張飛は、劉備がいるときはどれだけでも耐えられるし待てるらしい。
劉備の前ではいじらしく健気で可愛らしいところもある好漢であるのだ。
だけど劉備がいなかったら、短気であるしせっかちであるし所作も荒々しく、調練にはそういう部分があらわれている。つけこむところはありそうだった。
一度、陣形の仕上がりを確かめるのにすこし張飛の軍とやり合った。
兵の動きと手ごたえを確認しただけで魏延は兵を引いてしまう。まだ手の内は明かしたくない。
わずかばかりのぶつかり合いが張飛は物足りないようで、しきりと魏延に悪態をついてきた。


諸葛亮はこのところ政務の終わらせた夕刻からの時間を陣形の考察にあてていて、休息も取らず食事もおろそかにして没頭している。
夕餉の席にも出て行かないが、主君もやれやれまた始まったと諦めている風で、どうやら何かに熱中しているときの諸葛亮はいつもこうらしい。
張飛に絡まれるのを避けて魏延も夕餉の席にいかなくなり、おかずを室に持ち帰り、更には猪を煮たりしている。臭みを消すために生姜を入れ、醤(みそ)を少々、葱をたっぷりと加える。
容赦なく立ちのぼる匂いに気付いて視線を上げた軍師が目を丸くし、次いで表情を消した。
「わたしの鼎で、今度は猪・・」
殺意を感じた魏延は、「厨房で借りた鍋だ!」と彼の大事な鼎が無事であることを明らかにするために大声を出す。
諸葛亮は猪の鍋料理を食べて、「意外なことに美味い」とぼそりと言った。
そうであろうと魏延はしたり顔で頷く。野戦料理は得意なのである。


「張飛殿がじれてきておる。ここは俺から行かず、誘い込むのが得策か」
「突進してくる張飛殿を迎撃する?至難のわざですね」
「城外での模擬戦に誘えば乗ってくると思う。そうすれば地形を利用できる。ただ、あまり妙な奇策は用いたくはないのだ。用兵の駆け引きで、勝ちにいきたい」
「―――・・こういう陣形は、どうでしょうか」
親密な近さにおののきながら、諸葛亮は盤上に陣を描いた。
魏延が身を乗り出すので、ますます距離は近くなる。
「なんという陣だ」
「さあ」
「ほう、軍師でも知らぬことがあるのか」
「・・・いえ、わたしが考えたのです」
「そうか、なんと」
この軍師の優れているところは、昔から存在するものを改良して自分の都合よいように変えてしまうことである。
それ以上に凄いのは、新しいものを生み出してしまうことだった。


「鶴翼とでも呼びましょうか」
広く翼を広げた鶴か。魏延はうなった。
「これは、―――これは、突撃してくる敵を奥深くに誘い込み、包囲して殲滅するという陣形か。なんと、恐ろしいものだ」
大きく翼を広げた優美な形が、猛将を誘い込む罠なのである。突撃してくる将と兵が果敢であればあるほど、奥深くに誘い込まれて、左右から挟撃を受ける。
そして、最深部には。
「この陣を軍師が率いるのであれば、軍師がおられるのは、最深部であろうな」
軍師は何事かを考えながら両手を組み替えた。すでに寝衣だというのに、彼が身じろぐと良い匂いがする。形の良い白い指が、これまた形の良いあごに当てられた。
「まさしく。囮の意味合いもあって、敵将が狙うであろう者が最深部にいる必要がある」
「はは」
魏延の背筋に快楽にも似たような震えが走った。
敵を深くに誘い込む陣の最奥で待ち受けているのがこの者であるなら、誘い込まれてみたいものだと思ってしまう。


「そうだな。三日後に、調練を見に来られよ、軍師」
「それは、――いいでしょう」
一瞬言いよどんだ軍師は了承し、広げた兵書を片付け、では休みます、と立ち上がった。
寝所へと引き上げる軍師の背を魏延は見送った。
軍師は並みの男より頭半分ほど高い長身で、肩も広い偉丈夫である。


軍師の私室は、主君である劉備の妻子とそれに仕える侍女たちが暮らす棟に通じる。
魏延は女が好きだし、手が届かぬような高嶺の花にことさら食指が動く性質だ。
劉備に心酔しているゆえ実際に手を出したりはしないが、主君の妻女とか、それに仕える女たちという存在には、心惹かれてもよさそうなものなのに。
奥の、女の園には一向に気が惹かれない。
それよりも。
寝室に立ち去る軍師の背に、情動を感じていた。





夜のうちに雨が降り、下草が湿っていた。遠くに見える山地は、女人の吐息のような朝もやに霞んでいる。
あたたかく湿り気を帯びた風が、しばらくすると山野に訪れるであろう春の予兆を感じさせた。

小高い丘に登っていった諸葛亮は、樹木の下で馬から降りた。丘の上には草が伸び、名もなき小さな花が咲いている。
里人が植えたのであろう幾本か並んだ桃の木に蕾が丸く愛らしくふくらんでいるのを見て、諸葛亮は微笑んだ。
城内に桃はなかった気がする。
「花開く頃に、我が君をお連れしようか」
「お、よいな。宴会でも張るか」
護衛の長に話しかけたつもりであったのに、違う声の返答があって振り返ると、別の木の下に劉備がいた。すこし裕福な農村の村長であるくらいの軽いいで立ちをして、にこにこしている。

「我が君、どうしてここに」
「ちょっと見に来たんだ。張飛が息巻いておってな。ずる賢いが荒っぽい用兵をしておった奴が、急におとなしゅうなりをひそめておると。軍師に兵法書なんぞを読まされて頭でっかちになってんじゃねえのか、俺様が叩きのめしてやる、となあ」
「・・・兵書は、あの者が勝手に読んでいるのです」
「自力で兵書を読み解いておるのか、意外だな。生まれが悪いと言いながら、なんであいつは字が読めるんだ?」
「上官の書物を盗んで読んでいたそうです。その・・・読みもしないのに格好つけに積んでいただけの書だから、中身が空のものとすり替えた、と・・」
幾巻きかは春本を混ぜておいたから、かえって喜んでおろう、などと言っていたのを思い出して諸葛亮は内心で赤面した。
「はっははは!お前の書は盗られておらんだろうな」
「今のところは」
このあいだ投げつけてしまった竹簡も、器用に修繕して読んでいる。
もし諸葛亮の書を春本とすり替えたりでもしようものなら、綴り紐を切ったうえで投げつけてやる。


丘の下にある平原の端からからわぁっという声と騎馬の駆ける音が立ちのぼってきて、見下ろした。劉備もすっと隣に立つ。
冬のあいだ赤茶けた土くれであったのに、今は一面に濃き浅きの緑の下草が生えている。
すでに何かしでかしたと見えて、張飛は怒っているようだ。魏延の隊を追い掛けている。
雨に濡れた下草のせいで多くの馬が動いても砂煙が立たず、視界は良好だった。

追いかける張飛の隊はさすがに歴戦のつわものだけあって貫禄と迫力がある。
逃げている魏延の隊も、前に見た時とは比較にならぬほど整っているのだが、若い兵が多いせいなのか意気揚々とした躍動感は感じられるものの、張飛隊の重々しさと比べると頼りない感じがする。
張飛の部隊に追いつかれてしまったら瞬時に崩されてしまうのではないかという危うさがあり、諸葛亮は眉を寄せた。

がんばれ、と思わず軍師という職務にふさわしくない声を出しそうになり、拳を握りしめる。

劉備と諸葛亮のいる丘よりも東にあるゆるやかな丘陵にさしかかったところで、魏延の隊の後続が遅れ始めた。脚力の弱い馬が遅れているのだろうと余人の目には見えるだろう。
現に劉備も、「お、遅れ始めたな。追いつかれるか」と腕を組んだ。
「いえ、あれは」
あれはわざとだ。陣形だと諸葛亮は思った。
『斜め?斜めの陣・・意味が分からん・・!』とあの男が叫んでいた、
「雁行の陣です。突撃をかける張飛殿を誘い込む気ですね」
あの男は縦長の隊列のほぼ中央にて馬を駆っていた。
劉軍には珍しい派手派手しい艶黄色の武袍は筋骨たくましい体躯に映えていて目立つ。真刃は使わない調練であるのに背負った大刀から丹朱の房飾りが流星のように尾を引いていた。

ついに張飛隊の先鋒が追いついた。
逃げ惑っているふりをして実は斜めの陣を展開している魏延隊を追う張飛の隊は、無意識であるのだろう斜行している。
最後尾の騎兵が追いつかれ、実戦なら討ち取られているだろうが、調練なので見向きもされずに追い越されてばらばらと脱落した。

その両軍が接近する最後尾に近いところでふいに、じゃあん、と銅鑼が鳴った。続けざまに、じゃあんじゃあんと重々しく、一定の音律で繰り返し打ち鳴らされ、張飛の軍の馬脚がゆるんだ。
馬は大きな音を嫌がる。訓練を受けた軍馬には影響は少ないとはいえ、皆無ではない。まして熟練の騎手であればあるほど、罠を警戒して反射的に手綱を引く。

張飛の軍がわずかにひるんだところで、魏延の軍の先頭を走っていた騎馬の一団が一斉にぐるりと騎首の向きを横に変えて、今度は丘を下り始める。
丘陵地のもっとも高い地点にある二本の木を基点として、左右に開いて展開する形になった。
広く翼を広げた鳥のような陣形。
三日で使いこなしたのか、あの男。
それも地形の起伏を利用して、陣の効果を強化している。
丘陵の樹木が目印だとあらかじめ決めてあったに違いなく、先頭の兵も迷うこと無く陣形を組んでいる。
戦才に、背筋に震えがきた。

農民然としてのほほんとしていた劉備も、真剣な武将の顔になり、かたずをのんで見守っている。
逃げる脆弱な魏延隊、追う精強な張飛隊、というありきたりな成り行きであったのが、今はまったく逆転していた。
ゆるやかとはいえ丘の高所から、左右に開きながら一気呵成に駆け降りる魏延の軍に、張飛の軍は丘を駆けあがりながら対抗するという不利な形勢である。
騎馬戦は高所から駆け降りるほうが圧倒的に有利であり、また左右からの挟撃というものは、全滅するのではないかと、対する兵の心を不安と恐慌におとしいれる。
まして、じゃあんじゃあんと規則的に鳴らされている銅鑼の大音声は馬をひるませていて、騎兵が坂を駆けあがる気力をくじいていた。

左右に分かれた魏延の隊の騎兵がいっせいに弓を構え、矢を打ち放つ。矢は不揃いな薄茶の細いもので、緑色のなにかをひらひらと舞わせながら飛んだ。
劉備が首をかしげた。
「なんだありゃ」
「・・・樹木の新芽でありましょう。兵舎の脇に流れる運河沿いに植わっている樹から採ったのでは」
調練であるので本物の弓は飛ばせない。それで手近なやわらかい若葉の枝をつかったのだ。
これが本物の矢だったらそちらの隊の被害は甚大であるぞと知らしめる疑似攻撃である。
騎馬で弓を操るのは容易ではない。それが得意な黄忠に教えを乞うたのだろうか。

騎馬兵ひとりにつき二、三本の新緑の枝を打ち放ち、それから、わああああ、と雄叫びを上げた。真刃の武器のかわりに持った木の棒を勇ましく振り回し、坂を駆け降り始める。
左右から挟みこむ鶴翼の陣。ただ誘い込んで殲滅するというのではなく、中央から打って出ているのは隊長である魏延本人だ。
魏延は、ほぼ先頭に立っていた張飛の前に躍り出た。張飛が顔を赤くしているのが遠目にも見えた。何事かをわめきつつ、数度、互いの木の棒を打ち合わせる。
張飛は、馬を引いた。嫌そうに片手を上げる。
張飛隊の方から退却の鉦が鳴った。
模擬戦の終了の合図であり、調練における模擬戦においては、敗北を認めたほうが鳴らすものだ。

張飛が、負けを認めた。

張飛の隊の方が熟練であり強兵であり、馬も良いものが揃っている。
張飛ただ一人の猛攻によってもおそろしい突破力があり、実戦ではどちらに勝敗がころぶか分からない。
調練においては騎馬兵がぶつかりあえば人にも馬にも怪我が続出して軍団の損失になるゆえ、優劣が決まった時点で兵を引くのが軍の規則になっている。張飛といえども、それを守ったわけだった。


諸葛亮の目から見ても、この模擬戦は魏延の率いる隊の勝ちだった。
感情の昂ぶりが押し寄せて、背筋が震えた。
ただ一度の調練の模擬戦とはいえ、わずか数か月の訓練で張飛の率いる歴戦の隊を負かすものなどそういるものではない。
どうしてあのような豪の者を反骨だのと難癖をつけて排斥しようと思ったのか。

「見事だな―――」
劉備がつぶやいた。
「ほんとうに見事だ。豪勇に加えあの用兵の才、しかるべき一軍を率いさせれば関羽、張飛と並ぶのではないか。益州を攻略する折には、必ずやあれに主要な一隊を率いさせようぞ」
「我が君」
「さあて、わしは戻る。わしが見ておったことは、秘密だぞ、諸葛亮よ」
「張飛殿は、荒れましょうか」
「わしらのような年になるとなあ、若い豪の者が育つのは、うれしいものよ・・・ま、翼徳はまだ若いゆえ、ぶつくさ言うであろうがな」
「はは」

軽やかに馬を御した劉備が城のほうへと丘を下っても、諸葛亮は木の下にたたずんでいた。
胸がどきどきと痛いほどに高鳴っている。
眼下では、丘陵地から両隊の騎馬兵が撤収しようとしていた。
その中にあってひときわ目立つ艶黄色の武袍の武者と目が合った錯覚がして、諸葛亮はくるりと彼に背を向けた。
風邪を引いたときのようにかぁっと体温が上がる感覚があって、顔が赤くなった。

五人ほどいる若い護衛兵たちは丘の下を指差しながら、興奮した様子でさきほどの調練の有様を話し合っており、結論としてはあの男の戦いぶりへの賞賛であった。
「張飛将軍に追われて、ああも冷静に陣形を敷けるものか?」
「豪胆であられるよな、魏将軍は」
諸葛亮も褒めたい。うれしい。
「うん、凄かったな!それになんだあれ、初めて見たけど、綺麗な陣形だよなあ」
そう、綺麗な陣形であった。有用な陣形でもある。
なにしろ自分の考え出した陣形を使っての勝ちなのだ。
うれしい。


なかなか冷静に戻れない諸葛亮は、背後に迫る馬蹄の響きに気付くのが遅れた。早春のやわらかい下草が馬の蹄の音を消してしまっていたからかもしれない。
どかりと背後に馬が立って、諸葛亮が驚いて振り返ると、ここ数か月のあいだ護衛となっている男の偉駆が目の前に現れ出ていた。
魏延がいきなり現れたことに護衛の兵はまったく反応なく、下の平原にいる顔見知りの兵と手を振り合ったりしている。
魏延はかぶっていた兜をぽいっと草上に放り出した。

「見たか、軍師!勝ったぞ!!」
目つきの悪い男であるのに、笑った顔はかわいい、といえなくもない。笑うと余計にこわい、と怯える文官も多数いるのだが。
ともあれ諸葛亮はいきなりの満面の笑みにぼぅっとしてしまった。
「あ、・・ああ」
「勝てた!!!!!!うおおおおおお」
筋肉もりもりの腕で拳をつくる様も、猛々しい雄叫びも、浮かれてはしゃいでいてかわいいなと思ってしまう。

どきどきが止まらない。赤面も引かない。
なんだろう、病気か、わたしは。
周瑜都督と同じく、胸の病か。
赤壁の戦の折には伝染病が流行ったものだが、うつってしまったのだろうか。

いきなり、ぐいと両肩に手を掛けられて、諸葛亮は息を止めた。
近い。待て、よさぬか。
呼吸がうまくできない。まさかこやつは、憎さの余りわたしの息の根を止める気であろうか。

「礼を申す。まこと、劉軍に加われて良かった!俺が、名高い豪傑の張飛殿に一矢報いられるとはな!!しかも小狡い奇策ではなく陣形を用いてだ!軍師のおかげだ!軍師の傍近くに侍れて、幸甚にござる」
・・・憎まれては、いないようだ。
ほんの数か月前に、暗く凄惨な笑みを浮かべていた、これが同じ男なのであろうか。わたしの首に手をかけて、底光りのする眼光をしてへし折るそぶりをみせていた男と、同じ人物なのか。
それに自分も。
反骨という稀有な悪しき骨相を持つ者ものとして恐れ、警戒していたのに。いつからこんなに近くを許すようになったのか。恐れも憎しみも、感じない。
あるのは、

あるのは―――なんだろう



懇意の妓楼にて、高名であるという占い師と交わした会話がよみがえった。
『たいそう不穏な骨相を持つ者がいるのですが。骨相とは、死ぬまで変わらないものあろうか?』
『骨相は、さあ、詳しくはございません。手相でありましたら、変わることは多々ございますよ。結婚運が無いとか、寿命が短いとかございましても、気にしつつも気に病まず精進して己の道を突き進んでおれば、手相は変わってしまうことがありまして、そうなりますと運勢も変わってしまうのです』
『そうであるのか・・・』
『私の得意は、恋占いなのです!では早速、占いますね!』
『恋占い?いや、それは結構』
『あ、おお、ああ、これは!――あなた様は運命的な恋のお相手にもう出会っておりますね!!出会われたのは最近で、そうですねえ、春が来るまでには、恋に落ちておられましょう!!』
忘れたいのに忘れられなかった、通り魔のような占いであった。


「張飛殿は俺の恩人だ。面子をつぶすのは本意ではない。殿には、ないしょにしておきましょうぞ」
いや、殿は見ておられたのだが。
張将軍を恩人だと言って面子を気にするなんて、意外な気配りにまた諸葛亮の胸はときめく。

「軍師、貴殿は誠にえがたい御方だ」
無骨で粗暴な男のくせに、護衛は諸葛亮の肩をそっと抱き寄せて、妙にあまい声でささやくと、そっと離した。

魏延が諸葛亮から離れると、待っていたように護衛兵が群がった。
いまの抱擁を見られていたのかと思うと、顔から火が出そうだと内心でどぎまぎする。事実、諸葛亮の白面はほんのりと薄紅に染まっていた。

「魏将軍!おめでとうございます!!打倒張飛将軍の念願かなったじゃないですか!」
「魏将軍の奇策は面白くて次は何をされるのかわくわくしますけど、正攻法も恰好よいですね!」
「最後のあれは陣形なんですか?はじめて見ました!」
「おう、俺の隊に入ったら教えてやるぞ」

賑やかに騒ぐのに背を向け、諸葛亮はよろりとよろけて木にもたれかかった。片方の手を樹木の幹にあてて、片方の手で顔を覆った。


これが、恋というものなのか。
もうすでに落ちてしまっているのか。

恋なんてしている暇はないのに。
それも、よりにもよってあのような者に。
誰もが――自分も、相手も、主公も、あらゆる誰もがどうしてと思うだろう者を相手に。

恋を、してしまった。


 






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(2023/3/12)

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