3月~4月:ときめき
護衛は今夜、隊の若い兵たちと飲んでいる。本日の調練で披露した見事な陣形について話しているのだろう。
考え事があるゆえ今夜は戻って来るなと申し付けてある。
言うことを素直に聞くかどうか疑問であるが、兵舎の脇で盛り上がっていた酒盛りの様子から、このあとは遊里にでも繰り出すのかも、と考えて諸葛亮はぴたりと動作を止めた。
あの男が遊里に行くのは嫌だ・・・
あの男の給金で遊里に行けるのかというと、一人で行くならば可能であろう、しかし部下を引き連れて豪遊なんてことは不可能だ、と護衛の給料を正確に把握している諸葛亮は考えた。
文官には毛嫌いされているが、軍の兵卒には慕われている。まさか隊の配下の者たちを置いてひとりで遊里に行くまいと結論づけて安堵するものの、安堵する自分をどう扱っていいのか分からない。
今日行かなくても明日行くかもしれないし、永遠に行かないということはないだろう。
永遠に行かせない為の手段となると。
手段となると。
たとえば、お付き合いを、し始めるとか。
お付き合い。誰と誰が、と考えて気が遠くなる。
つまりはわたしとあれが、ということになる。
それに、仮にお付き合いをし始めたとして遊里には行かないでくれと頼むということはつまりだ、遊里でするようなことの相手を、自分がつとめるということになるのではないだろうか。
いや無理だ。無理だ。そうだな、無理だ。
片手で顔を覆った諸葛亮は、落ち着ける要素が欲しくて周囲を見回す。
すっきりと整った西の壁際の黒卓には花器が置いてあり、花が落ちた梅の枝が、明るい黄色の菜花とともに活けてある。護衛が折った梅だ。諸葛亮は目をそらした。
東南の隅には寝具が置いてあって、ずうずうしい護衛が寝ている場所であり、護衛の私物がごちゃごちゃと並べてある。そこもまた目を逸らす。
北西の隅には諸葛亮の発明品を積み重ねてあって、これはなんだ、どう使うのだ仕組みはどうなっておるのだとしつこく問われ、自分もまた得意になってあれこれと説明してやった覚えがある。
庭に近い南の卓では、ともに酒を飲んだり兵法を論じたりした。
落ち着ける要素がどこにもない。
諸葛亮は東側にある寝室の扉を押し開けた。そこには様子を確かめた最初の日をのぞいて護衛が入ったことはない。
ひんやりとした暗がりに入ってほっと息をつく。
もういい、今日は寝てしまおう。
恋を、してしまった・・・というのも、気の迷いかもしれぬ。
そう、今日はあの男の戦術が見事であったゆえに、少々興奮しているし。
・・・あの程度の戦術とこのくらいの興奮を、恋と錯覚するのなら、あの赤壁にて周瑜殿相手に数十回は恋の錯覚をしたかもしれないが・・・
考えているうちに眠りに落ちた。
翌日になって江東にいる兄から書簡が届いた。
月が替わったら、江陵に訪ねてきて欲しいというものだった。
当然、主公にも報告した。
諸葛亮が兄の書簡によって呼ばれた江陵は長江北岸の都市で、占拠していた曹仁の大軍を撃破した周瑜が軍とともに駐屯しており、今や曹軍と対峙する最前線の地である。
もちろん単純に兄弟の再会などというものではない。
兄を介して諸葛亮に会いたがる人といえば数人は思い当たるが、場所が江陵であるからには――やはり、周瑜、であるだろう。
周瑜は自ら出陣して曹仁を破って夷陵を占拠し、江陵を落とした。
治安を整えるとともに陣を置き、西に位置する夷陵へぞくぞくと物資を運び込んでいると聞く。
江東は赤壁では共闘し、今もまだ曹軍に対しては同盟関係にある。
ことに魯粛は劉備軍との連合の継続を求めている。
だけど周瑜はそうではあるまい。夷陵に物資を運んでいるということは、益州を攻めるつもりに相違あるまい。
敵になる。
劉備の命で、黄忠が小隊を率いて付いてくることになった。だがこれは道中の護衛であって、会談を行う幕舎には同行できない。
「兄に会いに江陵に行くが、そなたは付いてくるか?魏延」
「はぁっ?なにを言っておられるのだ。行くに決まっておろうが」
「道中の警護には黄忠殿がついてくださる。だがそなたは武装をせず、剣を佩くくらいはよいが、あとは丸腰で、江東軍の最前戦地におもむく。それでも?」
「軍師で行くのであれば、是非もない」
何を言っているのだと言いたげだ。名目上の味方であるだけで実質は味方ではない大軍が駐屯している前線の地だ。
あの知勇そろった雅な武人が、兄を介して呼んでおいてだまし討ちをするような真似はなさるまい、とは思うのだが・・
「ほどよい衣服は持っているのか?身分の高い方を非公式に訪ねるのにふさわしく格式のある、それでいて護衛らしく控えめな着物は」
「ふむ、礼装では駄目なのだな?」
「そう、もうすこし軽やかなものを」
護衛の私物は、召使いが寝起きするための小部屋に放り込んである。
そこにいって衣装箱を開けてみるも、
「前から思っていたが、そなたの武袍はいちいち派手だな・・」
「戦場で目立たずに、いつ目立つのだ。控えめなどという言葉、俺の人生であったことはない」
「でしょうけど―――これは?」
砂灰色の地味な袍があったので、これでよいかな、と取り上げてみる。
「それは、下級仕官であったころの。待て軍師、それを着ろなどとは言うまいな!?」
「・・・着たくないということか?」
「あたりまえだ!軍師の兄君に会うのだろうが。それにだ、江陵といえばあの周都督、天下の美周郎であろう。軍師はそいつと会うのだな?」
「まあ、そうなると思うが」
「それでその粗末な袍を着ていけとでも抜かすまいな。そんなもので行ったら生涯に悔いを残す。ええい、新調するので待て」
そなたの着物なんぞ誰も見ておらぬ、礼を失しない程度に無難であればよいのだ!
と抗弁したのだが、護衛はどこ吹く風である。
「おっ、そうだ、軍師が選んでくれ」
と、どこまでも面の皮が厚い提案をぶちかましてくる。
「護衛の方の着物ですと?たいそう精悍な美男であられるゆえ、作り甲斐がありますな」
にこにこしている仕立て屋を前にして、諸葛亮は口ごもった。
いや、たいそう精悍な美男なのは前任者であって。
現在の護衛は美男ではな・・・いや、太い眉などはきりりとしていなくもないし、笑った顔などはかわいいところが、・・・ないこともない・・のだが・・・
仕立て屋が意気揚々と出してきた生地は爽やかな系統の色合いで、これもまた前任者を想定しているのに違いない。
あ・・・その涼やかな水色の生地は、いかばかりか趙雲殿に似合うことだろう・・・それに白の生地に濃藍の刺繍の布も、
「軍師、何を考えている」
「っ、・・・いや」
現在の護衛に背後から両肩をがっちりと掴まれて、びくっとした諸葛亮は首を振った。
「これが現在の護衛であって、彼に合う物を頼む・・」
「は、ははっ」
仕立て屋は目を丸くして平伏し、諸葛亮の背後をじっと見て、青を基調とした爽やかな色合いの生地をそそくさと仕舞った。
「そなた、顔が濃いな・・」
諸葛亮が好むような涼しげでやわらかな色合いの布が、まるで似合わない。
「体躯がご立派で貫禄がおありですぞ。金襴がこれほど似合う方も珍しい」
気を取り直したらしい仕立て屋がいそいそと、金糸で蔦の文様を全面に織り込んだ濃い朱橙の布を当てている。目が眩むほど派手だ。
「ほう、よいな。あと、そっちの金緑もよいではないか」
まんざらではなさそうな魏延に、主旨を忘れてはおるまいな、と諸葛亮が目配せをおくると、そうだった、というように目を剥いた。
「質の良い生地で控えめな衣をつくりたいのだ。よいものは、あるか?」
「そうですな、では、このあたりで」
「ふぅむ、軍師殿は、どう思われる?」
「どうしてわたしに聞くのだ・・」
「軍師の伴であるのだぞ。それに俺が選ぶと派手になるが、よいのか?」
「まったく」
仕方がないと息を吐き、いくつかの生地を見比べて、これはというものを護衛の体躯に当ててみる。
灰色がかった緑は少々重い、黒は凶悪に見てしまうし、青磁の色は悪くはないが。
「これがよいか・・・」
淡金黄の地に朱色がかった伽羅色の横糸が織り込んである。上質な糸を使った丁寧な織りで、それほど高価すぎもしない。
派手ではなくてどちらかというと地味めではあるが、少し凝った色合いがありきたりではなく、やわらかい風合いの生地がこれから盛りの春に向かうという時節にもふさわしく感じた。
「魏延、着ているものを脱いでくれ」
「う、――お、おお」
何故かうろたえた護衛が少しもたつきながら合わせ紐を外すと、仕立て屋が後ろに回り、脱ぐのを手伝った。
白い内衣を着せて、淡黄の生地を羽織らせてみる。
――なんとしたことか、落ち着いた、いい男に見えた。
あっ。
不覚にもときめいてしまった諸葛亮は口を押えた。
待て、待て。目を覚ませ。これは、そう――あろうことか、反骨なのであるぞ!
たまらなくなった諸葛亮はそっと片手を伸ばし、さりげなく、男の後頭部に触れてみた。
まだあった。まったく見事な反骨である。
このような者に恋をしてしまって、この先どうなるのだろうか。
悲嘆の情がこみあげた諸葛亮はその場にへたりと座り込んでしまった。
諸葛亮はさりげなくしたつもりであったが、実の所さりげなくはなく、魏延も仕立て屋も、軍師の奇行を目で追っていたが、どちらも沈黙を守った。
「・・・・では、こちらの布でおつくりいたしましょうか。しかしこの生地ですと、武官衣にするには向きませぬような」
「長衣でいい。裾はゆったりとさせて、袖は動きやすくあまり広がらぬようにして、急ぎ仕立ててくれるか」
「かしこまりました。帯は合う物をお持ちですか?共布でおつくりするといっそうご立派でお似合いかと存じますが」
「うん、頼む。わたしは疲れた。休む・・・」
ふらりと立ち上がった諸葛亮は、言葉通り疲労困憊していた。
もう駄目だ。
泣きたい。
目頭が熱くなる。
「軍師!?どうし――」
閉じた扉により、投げかけられた護衛の声が途切れる。
もはや安息の地は、この扉一枚で守られた寝所にしかない気がする。
あのような者を好きになってしまうなんて、どうかしている。
なんだか切ない。
途方に暮れてしまって、枕を抱きしめて少しだけ泣いた。
その日は、快晴になる気配がした。朝早くに起き、念入りな支度を整えた諸葛亮の寝室の扉が叩かれた。
「軍師!起きているか!?」
諸葛亮は返事をしたが、厚い扉で聞こえなかったらしく、どんどんと遠慮なく叩かれる。
「・・・起きている」
身支度を済ませた諸葛亮が静かに扉を開けると、困り顔の護衛に捕まった。ふてぶてしい男の筈が、まるで困ったことがあるたびに諸葛亮にすがっていた弟のような様子である。
「たすけてくれ軍師、着方が分からん」
頼られたことがうれしく、きゅんとした諸葛亮はひそかに胸をさすった。
「戦装束より難しい」
「そんなわけないでしょう――ほら、一度脱いで」
長衣の着方は簡単であるのだが、美しく着付けるとなると難易度が高い。
この男のように胸が分厚く腰も太いとなると特に、帯のほどよい位置を決めるのが難しいのだ。
「当たり前ですが、均とはまるで違いますね」
背はほとんど同じなのに、ひょろりとした体格の弟とは肉付きがまるで異なっていて、同じ人間だと思えないくらいだった。
「折角なので髪も結い直しましょう。そこに座って」
「・・、う――む」
見たままに堅い剛毛である。髪油をつけて梳いてゆくも、癖もあって強情な毛ゆえに櫛が通りにくい。
「南方の血が入っているのでしょうか」
「であろうな。軍師は、北の生まれだな?」
「ええ」
「おなじ人間とは思えぬ」
「そうですね」
濃い肌の色、癖のある濃茶色の髪、横幅のある充実した体躯。
肌が白く痩せ型でまっすぐな黒髪という中華の北に住む民の特徴を持つ諸葛亮とは何もかもが異なっている。
ひと通り梳いたあとで、すこしびんをふくらませるように髷をつくり、やわらかい白巾で包み、布の端を形よく後ろに流す。
「これでよいでしょう」
「ふむ」
護衛はしきりと鏡を気にしている。
勢いよく立ち上がり、振り返って腰に手を当てた。
「美周郎より良い男に仕上がったか」
「え、いいえ。それはさすがに無理ですが」
思わず真顔で返してしまった。
「ですが、似合ってはいます」
布を選んで、仕立て方を決めて、できた着物を着せてやって、髪を梳いて結ってやる。
弟と同じようにしているのに、弟に対するのとはまったく異なる心持ちになるのは不思議であり、不思議ではない。
上等の白い内衣に、朱糸の入った淡い黄色の衣。生地も仕立ても上品であるのに、男の持つ獰猛さが隠しきれてはいない。
均相手ならば「よい男振りですよ」くらいのことは言っただろうが。
どんな表情をしたらいいのか分からず、それ以上のいかなる言葉も出なかった。
軍船で長江を南から北に渡り、江陵の港に着岸した。交易の盛んな大きな都市である。
周瑜が治世にも手腕を発揮しているらしく、支配者が曹軍から変わったばかりというのに活気があった。
港に迎えの馬車がきており、それに乗って小高い丘にある邸宅に入った。船から下ろした馬に乗って付いてきていた黄忠率いる小隊は、門前にて待機となる。
鎧の上から渋い臙脂色の武袍をまとった黄忠は諸葛亮に拱手をし、軽やかな長衣をまとった魏延ににやりと不敵な笑みを送ってみせた。魏延もまたふてぶてしく鼻を鳴らしたあと、型通りの拱手をする。
味方とはいえぬ前線の地を踏んでいる怖れなど微塵も見せぬ剛毅さを頼もしく思いながら、諸葛亮は老将軍に背を向けた。
門のところに兄が迎えにでていた。気苦労が絶えないのか、また老けたようだ。
兄は表情に乏しく、再会にすこしも嬉しそうではないように見えるのは、いつものことだから気にしない。
「亮よ、しばらくだ。元気そうだな」
「兄上におかれましても、ご健勝そうでなによりです」
「均と隴も達者か」
「それぞれ、つつがなく」
「そうか」
しばらくの沈黙の後で、兄は屋敷の奥にむけて視線を送った。
「おまえを、待っておられる」
「分かりました。お会いしてきます」
まったくの予想通り、あっさりとした再会はそれで終わった。
「あちらはお一人でおられる」
ただ事実を述べただけのようでいて、諸葛亮が護衛を連れているのを非難している。
兄に了承を取る必要は感じなかった。
二人になりたいのだったら、周瑜はそう言うだろう。諸葛亮に遠慮するような人ではない。
長江に張り出した露台に、丈の高い人影があった。
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(2023/4/2)
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