シリウス3 魏孔(私設)

 

「本尊の脇の二体の尊像は、それぞれ知恵と慈悲を意味するとか」
通りがかりに耳に入ってきたのは、浮屠教(仏教)の話題だった。
ただの噂話である。
インドから渡来した仏典が漢訳され、中国人の出家者が出始めていた。
「知恵と慈悲、か。ほう、まるでわが軍の軍師殿ではないか」
「つめたそうに見えて、あの方はおやさしい。人の命をそれは大事になさる。劉備様もそうじゃが、諸葛軍師も、民草への慈悲は相当のものじゃ」
「新しい鎧、ご覧になられたか。筒袖鎧とかいって、脇下も覆って防御を高めておる。装備した部隊の生還率は格段に上がったとか」
「都江堰の改修も、大規模じゃ。農業生産力は上がろうな。治水は国の根幹。おろそかにはなさらぬ」

行政官としての諸葛亮は一貫して人の命を惜しんだ。それは王侯高官にとどまらず、庶民の救済に広く及ぶ。
治水を整え土地を肥やすことに熱心な一方、痩せた土地に根付く作物を探し出したりする。彼の治世が行き届く地では飢える人民が格段に減っていた。



なにが知恵と慈悲か。
男に貫かれて良い声で啼く姿を見せてやりたい。

苛立っていた。
蜀入りののち官位を得た魏延も多忙ではあったが、比較にならぬほど軍師の職務は多かった。内政、外交、軍事。およそ一州のまつりごと全てに彼の手腕が発揮されている。
軍師との交合は完全な密会になる。都合を合わせるのは容易ではなく、人の目を避けて逢うのもまた難しい。
逢ったとしても激務による疲労と憔悴がつねに彼を取り巻き、魏延の望むとおりの激しい情交など望むべくもなかった。

『ぁ、あ、魏延、・・・・・・もっと、ゆっくり。・・死んでしまう』
数日前にやっと持てた逢瀬での、あわれな言葉を思い出して、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
胸に暗雲がわくような心地がする。

けっきょくその日魏延が彼の身体をなぐさんだのは一度きりだ。
疲労に青褪め冷え切った身体をあやすような愛撫で温めて高め、時間をかけて貫いた。軍師は快にわななきむせび泣いていたが、一度めが終わると意識を失うように寝入ってしまった。
他のもの相手だったら、頬を叩いて引きずり起こし、あるいは意識を失ったままであろうとも、自身の性動を出し尽くすまで犯しただろうに――

もとより主君の信厚き自軍の筆頭軍師である。傷をつけるような真似はもちろん、翌日立てぬような抱き方も、そう出来るものではない。
軍師はすでに魏延のほどこす愛技に馴れ、激しく責める情交でも乱れたが、無理やりに強い快楽を引きずり出すより、身体をあたため体温をうつすようなやり方が、安らぐようだった。
そのように抱くと、終わった後の寝入るまで、そして寝入ってからも、魏延の体温にすり寄ってきたりもする。
軍師の身体は最近、季節を問わず驚くほどつめたい・・・


舌打ちをした魏延は不機嫌をかかえたまま街に出、妓楼に上がり、男女を問わず嬲り荒淫のかぎりをつくした。
着飾った娼婦やたおやかな男娼は、おしなべて魏延をおそれた。剛勇をほこる武将にふさわしい雄偉な体躯ににじむ荒々しい暴力の気配、また皓皓と底光りする眼光が獣じみた凶相を。おそれるも逆らえるすべもなく凌辱を受け入れ、痛苦に泣き叫び、あるいは性の悦楽に悶え狂った。
同じだ、誰もかれも。
抱き潰しては相手を変え、また犯す。
登城することと軍務はおろそかにはしなかったが、下城してからは屋敷には帰らず、妓楼に居続けた。

いかに色街でのこととはいえ、度が過ぎる荒淫は人の耳目をひきつける。わるい評判はじわじわと広まった。
登城すると、ことに潔癖な文官らがひそひそとささやく陰口が耳に入る。
歯に衣着せぬ物言いで机上の空論を切って捨てる魏延は、文官から毛嫌いされている。
「なんと貪婪な。ひとの皮をかぶった獣のようではないか。けがらわしい」
「もとより性は残忍にして傲慢。戦場の役にしか立たぬ男よ」
「まことに。都城になど留めおくものではないわ。どこぞの前線にでもやってしまえばよいものを」

魏延は、それらの文官を振り返り、歩を進めた。
中華では武官より文官の地位と権威が高い。だからこその陰口なのだ。
まさか本人が向かってくるとは思わなかったのだろう、群れた文官らは息をひそめた。せり出した肥満の腹にまとう豪奢な文官服。知らぬ顔だ。益州官吏であろう。
魏延の目には炯々とした底光りがあり、口元には冷笑がある。
「時流を知らぬ年寄りが、減らず口を叩くものよ」
魏延はせせら笑った。性は残忍にして傲慢――あたっている。だがその残忍な武将に対して、聞こえるような陰口など言える頭の悪さこそが、馬鹿らしいほど傲慢ではないか。

「軍師将軍、揚武将軍らが制定しておられる、蜀科とかいう法が、そろそろ完成するそうでは御座らぬか」
魏延はおもわぶりに、にやりと嗤った。
「厳しいそうで御座るなあ・・・ことに賄賂をもって民を虐げるものを許さぬとか・・・妓楼というのは面白いところで。いろいろな噂が入ってくるものですぞ・・・そう、誰が誰にわいろを贈って官位を買ったとか、身内の不祥事をもみ消したとか、何とか」
老文官らが息を呑む。
魏延は、彼らの身上など少しも知らなかった。
だが、劉璋政権下では官僚の腐敗が進み、わいろが横行していたそうな。わいろでもって官位をあがない私欲を満たし、あるいは高官であればあるほど身内の不祥事などは法を曲げて罪とせず見逃すというようなことも、日常茶飯事であったという。
だからこそ諸葛亮はもとより少ない彼の睡眠を削りに削って、厳しく詳細な法を制定しようとしているのだ。
案の定、叩けば埃の出る身であるのだろう、老文官らは顔色を無くし、捨て台詞を口の中でもごもごとつぶやいて去っていった。
いずれ、諸葛亮かまたは法正に裁かれて、落ちぶれていく者たちだ。
豪奢な衣服をまとい、過去の権威を振りかざすだけの無能者。
彼らの背を、魏延は一顧だにしなかった。



軍師府の手前で、当人をつかまえることに成功した。
軍師は数十巻もの書簡をかかえて、彼の執務室に帰るところだった。
「お持ちいたそう」
「・・よい。順番に並べてある」
彼に続いて執務の間に入ると、人目がないのを良い事に魏延は錠をおろした。
「すこし、疲れた」
軍師は書簡の山を丁寧に卓に置いたあと、背後に近づいた魏延の肩に、ことりと頭部をあずけてくる。最近、このようなことが少しずつ起こるようになった。
軍師が――魏延に対して束の間にしろ、甘えてくるようなことが。
「宜しいのか、そのように無防備で」
「・・・駄目なのか?」
軍師が眸を廻らせ、鼻を鳴らした。
「人の股ぐらに陽物を突っ込んでおいて、今さら。肩を貸すくらい許せ」
く、と魏延は噴き出した。
この投げやりな言い様ときたら。言葉通り、お疲れであられるらしい。
「某は、もとより性は残忍にして傲慢。ひとの皮をかぶった獣であるゆえ」
「誰が言った」
「さあ、あのような小者どもの名など知らぬ」
「当たっているではないか」
軍師が含み笑う。ふん、と魏延も鼻をならして笑った。
胸中の群雲がすこし晴れた気がした。

「憎らしいことを。けだものらしいことを致しますぞ」
魏延は軍師の首に唇をつけた。あ、とあえかな声と息を呑む気配。
拒絶は許さぬと身体に教え込んだ。だがそれにしても脆い反応だった。一瞬、軍師は魏延にもたれるように寄りかかり、身を任せるそぶりをみせた。
だが黒い道袍の前を割ろうとすると、身をかわし離れていく。
「ここでは、ならぬ」
「いつ、どこでなら良いのだ」
「・・・しばらくは身体が空かぬ」
魏延は唸った。一瞬にしても確かに腕の中にあったあてやかな身体が、もう遠い。
「其方も蜀の臣ならば分かってくれ」
賢しらな言葉に魏延は鼻にしわ寄せて一歩近寄り、軍師の片手を取った。
「しばらくお慰めしておらぬ。御身体が疼いておられるのではないか」
卑猥な揶揄を口にしながら、それよりも掴んだ手の凍り付くような感触にぎょっとした。
くしくもそれは彼が執務を行う利き手で、寒い季節ではないというのに、指先までが芯から冷え、こわばり、凍え切っているようだった。
生きた人間の手とは思われない。
「・・・このように冷えた躰で、貴公、眠れるのか。そも、いつ寝ておられる」
「・・・」
魏延の言葉と行動は、彼の弱み、のようなものを突いたようで、軍師は口をうすく開けて息を呑み、目をさまよわせた。

軍師の睡眠が少ないという事は古参の将官の間では有名で、別に、驚くべきことではない。
だが、痛いところを突かれたという視線の泳がせ方は、不自然だった。
眠りたくても、眠れていないのだろうか。
または、男の性として、極度に疲れたときは性交がしたくなる。戦場帰りの武将などはその最たるものだ。
自慰すらしないという彼にそういう衝動があるのか分からぬが、魏延によって拓かれた身体は或いは、そのような夜があるのかもしれなかった。

「某を、閨房に招いてくだされ。あたためて、眠らせて差し上げようほどに」
軍師は自らの手を魏延のそれから引き抜いた。
「・・・要らぬ世話だ。ろうがわしい」
語調のつめたさにかっとなり、卓に押し倒して事に及んでしまおうかとも思うが、先ほどから扉の外が、がやがやとざわめき始めていた。
一州の政治と行政の中枢なのである。人払いしていても、長く篭っていられるものではない。

軍師は疲れたような仕草で頭をひと振りし、のろのろと辺りを見回した。何百あるのか数えるのも億劫なほど大量の書簡が積みあがっている。それらは全て軍師の決済が必要なものなのだ。

「精が有り余っておるなら、賊の討伐に行ってくれ」
積みあがった書簡の一つを取り上げ、魏延に放り投げる。
危なげなく空中で受け取った魏延が開くと、成都から見て西南の地域からの嘆願書だった。
曰く、山野を根城とする大規模な賊が跋扈しているので、正規軍の助力を願いたい――・・・
遠い。かなりの遠征になるはずだった。
体よく遠方に追いやられるようで忌々しいが、武将としての血が騒がぬでもない。
「承知いたした」
魏延は下城し、また妓楼に通った。
・・・精が有り余っておるなら――・・・
男娼を犯しながら、ふと、軍師は、魏延の色街通いを知っているのだろうかと、考えた。お堅い文官どもの間で噂になっておるのなら、或いは、彼の耳にも入っておるのかもしれぬ。
どうでもいいことだ。
髪が黒いほかは彼と似ても似つかぬ娼童を抱きながら、魏延は唇を曲げた。




賊の討伐に出征し、完了したが、手間取って帰城が夜中になった。
ただの盗賊のたぐいではなく、南蛮の部族と通じていると思われる証拠を見つけたのだ。その密書をふところに入れて城に入った魏延は、急ぎ軍師の執務の部屋へと向かった。

夜中に軍師府を訪れるのは、なにか心を騒ぐものがあった。時刻を考えれば、大勢いる文官の取り巻き連中は退出し、軍師が一人で居る可能性が高かった。
彼の様子と流れによっては、情交に至るかもしれない。しかしまた、何もなくただ報告だけして帰る可能性も大いにある。
どちらの展開もありうるだけに心が騒ぎ、その自らの胸中のざわざわと落ち着かない有様が、魏延は舌打ちしたいほど不快だった。

回廊を曲がり辿りついた軍師府の明かりは消えていた。
執務の間の扉は堅く閉じており、ひとけがない。
同じ建物に膨大な書物を有する書庫が連なる。その更に奥に軍師の休息所があることを知っていた。知ってはいたが足を踏み入れたことは無い。政務の為ほとんど城で眠っているという彼のごく私的な空間だ。
踏み込んでよいものかとさすがの魏延も躊躇しないでもなかったが、ふところに入れた密書を手渡すという、密やかにして公的な用件がある。
一歩踏み出したところに、話し声が耳に入った。
秘めやかな声音で、数人ではなくおそらく二人であろう。ひとつの部屋の扉が開き、明かりがもれた。ほのかな灯に浮かびあがったすらりとした長身は、軍師のものだった。そしてその後から、背の高い男が出てきた。
心の臓が跳ねた。
軍師はいつもの黒い道袍を身に着けていたが、袖が通されておらず、肩に羽織っただけといった様相だった。頭頂に冠はなく、結いもない。
諸葛亮は穏やかであると見せかけているが、実のところ内面では気難しく、そして人見知りをする男だ。
それが酒でも飲んでいるのか、この上なく打ち解けた雰囲気だった。うつくしい容貌は闇にも呑まれず白く浮かび、春花のごとくやわらかい笑みを浮かべている。その黒髪がゆるやかに肩に流れていることに、ぎくりとなった。
冠も巾もつけずに髪が解かれているというのは、尋常ではありえない。・・・よほど親しい間柄でも――それこそ、閨を共にするくらいの関係でもない限りは。

そして、軍師がこのようにくつろいでいる様など、見たことはなかった。
軍議や政庁では言うに及ばず、宴席などの遊興の場でさえも、いつもどこか尖ったところのある男なのだ。 
相対する男もまた、穏やかな貌をしている。忍びやかに談笑していたふたりはやがて何事か深刻な様子で話し出し、そして、呆れるほど凛々しく整った容姿の男が、軍師の肩を抱き寄せ、抱擁した。
なにか、驚愕した。
衝撃を受けた。ぎりぎりと腹底が締め付けられる。
親密ではあるが、別に、性的なものがあるわけではなかった。
信頼とか誠とか、そういう言葉が浮かんだ。

軍師の表情も、男の眼差しも、ひどく真摯で誠実だった。
それは、遊里などに憂さを晴らしにおもむいて荒淫の限りを尽くす己とは、対極にあるものだった。


どれくらい立ち尽くしていたのか。
男が手に持った灯明の炎が揺れながら、二人の背が廊下の曲りの奥に消えて、あたりは闇に包まれていた。
じりじりと胸底を炙られるようだった。驚愕が解けると怒りが湧き上がり、はらわたが煮えくり返った。
足音も荒く奥へと向かった。身を寄せあった二人が消えた方向へ。
――犯してやる。
憤怒に焼かれながら、けだものそのものの獰猛さを剥き出しにして歩を進めた。
犯してくれる。あの男の目の前で・・・・・!

似たような扉が並ぶ中、わずかに明かりが漏れる一室に押し入った。
がらんとした居間に人影はなかった。奥にもう一室がある。人の気配があった。
胸糞の悪さがこみ上げた。そこは寝室に違いない。男に抱かれて快にあえぐ姿が脳裏にちらついた。
「――誰ぞ」
ひそやかな声がかかった。平素の音律をそこなわぬ、冷静な声だった。情人と共にいる甘やかさもなければ、狼狽もない。
息を呑んでいると、向こうから扉が開いた。
「・・・・魏延?いや、魏将軍―――帰城されたか。賊の討伐はどうであった」
道袍はもう着ていなかった。寝衣であろう白い単衣に、淡い青緑色の着物をゆったりと羽織っている。
さして広くもない部屋の壁際には簡素な寝台がしつらえてあり、脇の卓には広げたままの竹簡が置いてあった。卓上に置いた灯りが、居室を静かに照らしている。

「・・・・如何した。そんな顔をして。なんぞ大事でも?」
自分がどのような顔をしているかなぞ意識にのぼらないが、酷い形相であったのだろう。
「伝令には、無事、賊を打ち払い騒乱をおさめ終えたと聞いたが。・・・・配下の者を・・・亡くしたのか・・?」
軍師は沈痛な面持ちで眉を寄せた。
まるで見当違いであった。軍師の采配で十分過ぎるほどの軍備と数で遠征したのだ。賊ごときに敗れるはずもなく、配下は誰一人として欠けていない。
沈痛に曇った表情に、先ほどとはまた別の感情でじりじりと胸底を炙られるようだった。

「情人で、あられるのか」
魏延はなけなしの矜持を掻き集め、不遜に嗤ってみせた。
「はじめてお抱きした際、貴殿は、最中にあるお人を呼びましたな、男のあざなを。いとも切なげに」
先ほどまで軍師が共にいた男。くつろがせ、安らいだ微笑を誘い、肩を抱き、そして今この寝所にはいない男。
魏延はその者のあざなを軍師が呼んだとおりに口にした。軍師の表情はすこし動いたが、魏延の予想したような劇的な変化は見られなかった。
「情人であられるか」
「・・違う」
「ほう。――やはり後ろは、初めてであられたか」
軍師は顔をそむけて応えなかった。
「では、接吻すらしたことがないと?」
顔をそむけたまま、彼は嫌そうに首を縦に振った。
「ろうがわしい妄想はやめよ。彼はそのような相手ではない。・・・で、賊の討伐はどうなっ・・・」
眉をひそめて此の方を向いたのを良い事に、思うより前に口を重ねていた。
魏延はあらゆる性の享楽を貪婪にむさぼるが、口づけだけは好きではなかった。口同士の生臭い粘膜を触れ合わせるのは気持ちが悪く、全くしたことがない。軍師ともこれが最初だった。
存外に、やわらかい。気持ちの悪さなどまるで感じない。どころか、まるで花びらにでも、触れるような――・・・

この心地。
花が咲いたのを見るような。咲いた花が散り敷くなかにたたずむような、ふわりとした心地。
なんとしたことか。


腹の底から哄笑がわいてきた。
なんと馬鹿らしい。


どれほどの時間、口を重ねていたのか。長いように感じられたが、おそらくほんの短い時間であったのだろう。
「賊の討伐はつつがなく。したが、南蛮とよしみを通ずる書簡を見つけ申した」
「・・・・・・」
魏延はふところから密書を出して、卓に広げた。漢語で書かれてあるが、方言のようなものや難解な地名人名があって、読みにくいものだ。
軍師が唇に指先をあてたことも、その指先がかすかに震えていたことも、魏延は気付かなかった。






「漢中太守――?は、なんと、某が?」
聞いたとき、ふてぶてしいほどの豪胆を誇る魏延さえも耳を疑い、呆けた声を上げずにはおれなかった。
漢中は漢の高祖劉邦が決起した土地であり、古い歴史を持つ重要な
土地である。その上、地理的な状況を鑑みるに益州にとって、今後曹操軍に対する最前線になるのは間違いない。
要衝中の要衝―――その太守ともなれば、劉備軍に属する軍人としては最高位に列する高位である。
魏延は劉備軍に加わるのが遅く、古参の武将とはいえない。それに名もなき家の出身で、たとえば益州や涼州といった地での実績や家名、名声を得ているわけでもない。
魏延は目を剥いて主君を見、次いで主君の背後に控える黒袍に目をやった。常のごとく羽根の扇をかざした者の表情はうかがえない。
朝堂には、主君と軍師以外の人影はない。つまりは非公式の内示なのだ。
「某は、――張飛殿が任官されるとばかり」
「わしもそれは考えたが。しかし、わしは魏延、其方が良いと思った。孔明も賛成したしな。どうだ、受けてはくれまいか」
「――、・・・」
あまりの重要さに口ごもったが、そも、断れる筋ではない。
また最前線の要衝を任されるというのは、武将としての血が煮え滾る申し出である。
遠からずやってくる曹魏との決戦。それは荊州北部かもしくは漢中。その一方の防衛線の最前の地の司令官に任命されるという名誉――魏延は彼本来の性のままににやりと不敵に笑い、炯々と目を光らせて立ち上がった。
「お受けいたそう、主公。まこと血沸き肉躍るようだ」
「おお、なんと。たのもしいな」
「曹操など打ち破ってみせましょうし、10万程度の敵兵ならば呑み込んでしまいますぞ」



深夜になって、魏延は軍師府を訪れた。
礼法通り文を遣わせ、密議を申し入れてからの訪いである。
軍師はまだ執務室にいたが、魏延を認めると筆をおき、違う一室にともなった。私室とは違う、来客と応接する用であるのだろうか、こじんまりとした部屋に卓と椅子、茶を煮る調度などが整っていた。
閑雅なしつらえだった。豪奢な贅沢品はなにひとつなく、質素であるのにどこかしら雅やかな風情がある。



「さぞや、うれしいでしょうな。某を遠方に追いやる口実ができて」

腹をすえて考えてみれば、張飛ではなく自分が抜擢されたわけは理解できた。
漢中は秦嶺山脈という山で北の魏領と隔たれている。しかしこの山は峻険であるものの、軍隊が通れないというわけではない。
魏からの押し寄せる軍隊の通行を困難にし、そしてこちらの蜀側からの軍隊は容易に通れるようにしなければならない。
山中の間道を整備し、砦や柵や砲台などの防衛施設をきめ細やかに建造し、また敵軍には知られざる罠などを幾通りも設置する――言うは簡易であるが、実際に行うのはよほどの忍苦を要する作業である。
綿密な計算と、気が遠くなるような地道な土木作業、工事を必要とする。
勇猛ではあっても粗暴で大雑把な張飛には、不可能だ。

魏延は、自分ならばそれを為しえるという自信――というより確信があった。
どだい卑賤の生まれ。泥から這い上がったようなものである。
名流の嫡子や君主が好むような見晴らしの良い大平原での正々堂々とした会戦よりも、魏延と魏延が指揮する部隊は、山岳などの複雑な地形を利用して泥土に這いつくばるようにして行う 遊撃奇襲 ゲリラ 戦の方が得手である。
漢中を巧妙に要害化し、曹操がいかに大軍でやってこようとも、いや大軍であればあるほど身動きが取れぬまま、山岳地帯の底無しの罠に呑み込んで溶かしてくれよう。


魏延は、軍師が望まぬ淫らな密事から逃れようとして、魏延を遠方に追いやったとは、思っていなかった。
いかに彼が苦痛と恥辱を感じていようとも、その私情と比することが出来るほど漢中は小さな土地ではなく、漢中太守は軽い地位ではない。

それでいて、なにか寂寞とした思いがあった。
あの男は変わらず州の中枢――主君と軍師の側に残り、いかに大権を持つ高官への抜擢といえども、遥か遠方の地に去る自分。
結局は、軍師の思い通りというわけだ。

軍師は言葉を発しないままじっと魏延を見ていた。
この男はなんとうつくしいのだろうかと魏延は閨で何度も思ったことをまた思い、喉の奥で嗤い唇を皮肉にゆがめた。
もう、認めざるを得なかった。

堕としたつもりが堕とされていた――この魏文長が。

豺狼と・・・けだものと、面を向かって罵倒されるほどに嫌悪されているのに。



魏延は軍師の背後にまわり襟を左右にくつろげ、胸に手を這わせた。裾を割って片方の手を中心に忍び込ませる。彼が着る道袍の扱いにも慣れてきた。脱がすことも、着たまま意のままに乱すことも。衣の中でじかに触れると、軍師は目を閉じた。
魏延はゆるやかに軍師の中心をなぐさんだ。かたちを確かめるように指を這わせ、上下に擦り合わせて熱を煽れば芯をもって勃ちあがり、魏延の手の中でせつなげに震え、やがて精を吐いた。

「脆うなられたものだ」
懐から出した布で軍師が出したものの始末をつけながら揶揄すると、軍師は屈辱に耐えるように一瞬眉を寄せたが、物憂げに首を振った。
「・・・・其方のように枕童を侍らしておらぬゆえ、な」
枕童とは性をもって奉仕する下僕。たしかに魏延の屋敷にはそれがいる。
「―――軍師殿を夜毎お抱きしてよいならば、枕童など要らぬものを」
戯言のような言葉であったが、口に出してから本心と気付いて、魏延は手で顔を覆って笑い出した。
枕童も妓楼の男も女も、抱いたところで満たされはしない。精を吐くたびに空虚さを感じるだけだ。
誰も、彼のかわりにはなれない。
当たり前だ。
元より、この世にふたつとない珠玉のような者なのだ。

「そのようなことを言い出されるとは。まさか妬いておいでか」
まるで言葉遊びだ。本心などどこにもない、魏延が吐いたのはまさしく虚言だった。
しかし、軍師の返答は虚言ではなかった。虚言を吐くなどという事は、公でも私事でもしないのだろう。
「妬く・・・というようなものではないな・・・其方の枕童と同列であるという我が身がみじめで、・・・哀れとおもう」
沈痛さを含んだつぶやきは魏延に言葉を失わせ、沈黙が立ち込めた。

どこからやり直せば、こうはならなかったのだろうか。

軍師は物憂く視線を下げていたが、動かない魏延を不思議そうに見たあと衣を整えた。
多分、この場所で犯されると思っていたのだろう。魏延も当初はそのつもりだったが、もう動けなかった。
揺れる火影が、黙る軍師の繊細な面貌を照らしていた。

ふいに表情を改めた軍師が、魏延を見つめた。
このあいだ別の男に向けていた、真摯で誠実な眼差しだった。
「魏延、―――漢中を、頼む」

魏延は眉間に皺をよせ、一度目を閉じ、――しばらくして開き、もう二度と抱くことは無いであろう黒衣の男を見つめた。
いつもの、不遜で傲慢な冷笑を浮かべた。
「言われるまでもない。主君にも誓うたが、某が漢中にある限り、曹魏に蜀の地を踏ませるものか」

数十日後、魏延は漢中に向けて出立した。



 






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(2019/09/22)

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